わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

伊藤比呂美『ラニーニャ』

「ハウス・プラント」読了。読み進めるにつれ、作中の要素がみなバラバラであることに気づく。庭の様子は、語り手は園芸好きらしいというのにユーカリの毒素にやられたせいかバラバラした感じで、そもそもユーカリ自体がバラバラ(というよりはバサバサ、か)と枯れてゆく。同棲相手(内縁の夫?)であるアーロンは肉体と人工股関節がバラバラ。上の娘は楽しく毎日を過ごしているようでも、学校ではふさぎこんでいるようで場所によって態度や心理がバラバラ。まだ赤ん坊の下の子どもも、うまく言葉が話せないので意志と言葉とがバラバラ。そして語り手自身、国籍と暮らす場所がバラバラ、日常で使う言葉と思考する言葉もバラバラ、それ以前に、なんだか家族全体がバラバラのようにも読めてしまう。この、バラバラに対する絶望と、絶望に対する開き直り、その態度の差のバラバラ感。これが妙なほどカリフォルニアの能天気な青空と海にマッチして、逆にバラバラであることが心地よく、それこそが生活の基盤なのではないかと思えてしまう。しかし、よくよく考えるにこれは悲しい小説だ。日常が抱える悲しさ。このような悲しさは、語り手の異国での生活に固有のものではない。おそらく、誰もがなんらかの形で抱え込んでいる。
ラニーニャ