わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

中上健次『鳳仙花』

 年に一度くらいの割合で、猛烈に中上が読みたくなることがある。多くが、ちょっと精神的に弱っているときや変化を自分に求めているとき。あの獰猛で猥雑、しかし美しい文体と世界観に秘められたエネルギーを、欲しているのだと思う。
枯木灘』『岬』『地の果て 至上の時』の主人公である秋幸の母、フサが主人公。フサの少女時代から、おそらく秋幸がある程度大きくなるまでの物語だが、フサの母であるトミの存在も同時に語られているようだ。やはり「血」が作品世界の中心にあるのだろう。
 十五歳のフサは、自宅から近所の酒屋に通いで奉公している。そこに、大好きな兄・吉広が出稼ぎから帰ってくる。フサと母親の関係が語られる中で、フサは私生児であり、妊娠七ヶ月のときに母が木屑を腹に打ち付けて堕胎しようとしたことがあることが語られる。
 内容はまだこれから、ってところだが、書き出しにいきなり圧倒された。美しさ、強さ、そして情報密度の濃さ。例によって引用。

 紀州の海はきまって三月に入るときらきらと輝き、それが一面に雪をふりまいたように見えた。フサはその三月の海をどの季節の海よりも好きだった。弥生は特別な月だった。海からの道を入ってフサの家からすぐそばにある寺の梅が咲ききり、温い日を受けて桜がいまにも破けそうに蕾をふくらませる頃、フサがいつも使い走りする度に眼にする石垣の脇には、水仙の花が咲いている。今年もそうだった。その水仙の花を見つけた時、近所の酒屋の内儀から「はよ走って行って来てくれ」と言いつけられた小間使いを忘れて、走るのを止め、肩で息をしながらしばらく見つめていた。その白い花弁の清楚な花が日にあたっているのをみつめていると、胸のあたりが締めつけられて切なくなり、涙さえ出た。
 その花が咲く度に春が来る。フサが生まれた三月七日という日が来る。フサはその日がまのなく来て十五になると思い、紀伊半島の、一等海にせりだした潮ノ岬の隣りの古座というところに根付いた水仙の一群が、日を受けて花を付けているのを見て、人の都合や思いの届かないところに、人も花も石垣も包み込むような大きなものがあるのかもしれない、と考えたのだった。

 その「人も花も石垣も包み込むような大きなもの」がこれから語られるのか。それとも。
 中上は絶望ぎりぎりの生を好んで描く。なぜなら、絶望ほど人を弱く、しかし同時に強く見せるものはないからだ。

鳳仙花―中上健次選集〈4〉 (小学館文庫)

鳳仙花―中上健次選集〈4〉 (小学館文庫)

枯木灘 (河出文庫 102A)

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岬 (文春文庫 な 4-1)

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地の果て 至上の時―中上健次選集〈10〉 (小学館文庫)

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