表題作。湖か海か、水辺の観光地に家族で訪れた家族の父親が、深夜に喉の渇きを感じながら、水にまつわる体験を思い出す、というだけの話なのだが、文体に隙がなく、異様なまでにテンションが高くてスリリング。作品上とくに重要な部分というわけではないのだけれど、気に入った部分を引用。十七歳のときの盲腸の手術のあとによく眠れぬほど苦しんだ痛みの中に紛れ込むように存在する、水の記憶。
疲労困憊して眠りに落ちても、痛みはまだ続く。生殺しのような重苦しい眠りだ。ただ、痛みは局所感を失い、それとともに肉体の感覚のほうも輪郭がほぐれはじめる。眠りの中にいったん溶けた意識が痛みにつなぎ止められてまだわずかに目覚めていて、じつにとりとめもないことを緩慢に考えている。容赦のない肉体の苦痛からおよそ縁遠い気まぐれな想念がしつこく浮び、そのくせ苦痛を忘れさせる力もなく、徒にざわめいて通り過ぎる。漠とひろがったからだの感覚のおおよそ中心のあたりで、心臓がもう全身にたいして責任をもたないというふうに、ひとり気ままに打っている。我が身の存在を収拾できなくなったような空恐ろしさにおそわれる。我身の中からじわじわとひろがり出ていく自分を引きもどそうと、毛布の下から重い手を枕元のほうに伸ばしかける。手の動きを各にして、肉体の一体感がいくらかもどってくる。しかし次に、その手のありかが、またつかめなくなる。いや、手を伸ばしている自分の、その中心のありかが感じ取れないのだ。
それから急に目覚めて、奇妙な無痛状態の中で、水の音を聞いた。(後略)
- 作者: 古井由吉
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1994/04
- メディア: 文庫
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