わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

カズオ・イシグロ/土屋雅雄訳『わたしを離さないで』読了

 最近は、緻密に計算された構成の作品はほとんど読んでいなかったし、そのような作品におもしろさも感じられないようにもなりつつあった。本作は、まさにぼくが最近よんでいなかった作品の典型という感じ。

 ぼくの好みではないのは確かだし、手記風に書かれているという点以外は、文学的にあまり関心が持てなかった。しかし一方で、倫理や科学技術、医療技術といった問題を改めて考え直すという社会的な意義は大きかった。というわけで、社会的な問題的をした作品としての価値は認めるのだが、社会的問題に直面した(というよりは犠牲となった)「個人」を描いた作品(社会問題を描いた作品、じゃないよ)としては、ちょっとモヤモヤした読後感。

 社会に対して問題を提起したり問題に対する答えを提示したりするのも文学の役割のひとつではあるのだろうし、社会問題にはぼくも関心は高い(「荒川強啓デイキャッチ」のリスナーだし、「週刊リテラシー」の視聴者だし)。でも、そこを出発点にして文学作品を、言い換えると作中人物の人生をつくりあげていくというのは、少なくともぼくの好きな方向性じゃないんだよなあ。そこをゴールにすると、こじんまりしちゃうような気がして。文学は、小説は、もっと自由なものなのだ、その自由さこそが文学の、小説の、一番の魅力なのだ……ということを、もうちょっと信じ(てい)たいんだよ。というか、そういうことを感じながら読みたいんだよ。

 ぼくは中上健次の作品が大好きだ。中上は被差別部落を舞台にした作品を残しているけどさ、それはあくまで舞台装置でしかない。登場人物たちの荒くれた人生や、文体から感じられるエネルギーのすさまじさに圧倒される、その感覚がおもしろくて読みすすめるんだ。

 

 いつもなら作品のAmazonページへのリンクを貼るのだけれど、なんかモヤモヤしちゃったので、今日はやめます。

 

 あ、本作はおもしろかったですよ。それだけは確かです。