わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

十六時の孤独

 七時起床。もう少々眠っていたかったが、気合いと使命感で起きた。午前中からフル稼働で仕事。仕事仕事仕事。夜まで仕事。夕方、チラリとスーパーに買い物に行ったが、それ以外は仕事だ。
 十六時ごろ、集中力が途切れた。アタマが飽和したようなので、ストレッチなどして気を紛らわす。花子は傍らでグースカと眠りつづけている。何か飲もうかとリビングに行ったら、カミサンも麦次郎も、ぷちぷちまでもがグースカと眠りつづけている。急に孤独を感じてしまった。ひとり起きていることは、孤独である。眠っていれば、誰も孤独を感じない。

 泰淳「わが子キリスト」。マリアを犯してから数年後、語り手の兵士は汚い馬小屋だか牛小屋だかで、マリアとその夫である大工ヨゼフと出会う。そこで幼少時代のイエスをはじめて目にする。ふたりとユダヤの神の加護をめぐって口論めいた状況になり、二人の部下とともに、汚い言葉で激しくユダヤユダヤの神を罵る。そのあとにつづく部分がちょっと気になったので引用。
《二人の部下は喜んで私の演説をきき、自信をとりもどしている様子だった。だが、おれは次第に、自分の言葉がよそよそしくおれから離れていく感じにおち入ったのだ。
 残念ながら、ヨゼフ、マリアの一家、および彼らの同族をはげしくののしるにつれて、かえってこの一家とその同族が人間として、おれに近しいものとして、おれと結びついてくるのだ。奴らをバカにして奴らを見下せば見下すほど、奴らが高みへのし上がってくるような気がしたのだ。この小屋に、おれが踏み込んできたのが、そもそも失敗だったのか。》