わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

加藤典洋『テクストから遠く離れて』

 読了。すこしずつ読んでいたけれど、ずいぶんかかったなあ。
 文学作品を、作者の存在を不在のものとして、つまり作品としてというよりも「テクスト」として読む。テクストは誰が書こうと、作者の手を離れれば文学作品でしかない。テクスト論とは、ものすごく荒っぽく書けばそんなものだが、本作では近年の作家たちがテクスト論を(無意識のうちにか)逆手にとって、作者の存在なしには読み解けないような作品を生み出しはじめていることに着目し、脱テクスト論を展開する。それは古典的な、作品を通じて作者を読む/作者という人物像を通じて作品を読むのではなく、作品を通じて読者の中に浮かび上がる「作者の像」とテクストの相関の中で読むという方法。これは新しいことでもなんでもなく、ふだんわれわれが文学作品を読む際に、必ずやっていることなのだ。
 読み進めるにつれ、この作品は単なる文芸批評理論ではなく、もっと血の通った何かであり、より哲学的な領域にまで踏み込んでいることがわかる。作者とは誰かと問うことは、「私」とは誰かを考えることに通じる。最後のページではフーコーの「啓蒙とは何か」という短文が引用され、そこでフーコーがカントは「歴史の特定の瞬間----この瞬間----において、われわれは何者なのか」を追求している点でデカルトと大きく異なる、と論じていることを紹介した後に、著者はこんなことを書いている。引用。

 わたしには、「私たちが何者であるかを見出すこと」と「何者かであることを拒むこと」の対置より、「歴史の特定の瞬間----この瞬間----において」「われわれは何者なのか」と考えることと「私たちが何者であるか」と考えることの対置のほうが、実は、フーコーにとっても、わたし達にとっても、大事だと思われる。人は鳥瞰的にここがどういう世界であり、いまがどういう歴史的構成のうちにあるのかを知った後も、生きる時は、「ただの人」としてそこに----何も知らない人と同じ資格で----、生きる。現在の位置と現在の時点の意味を鳥瞰的に「知る人」は、なぜ、それを知ってなお、それを知らない「ただの人」と同じなのだろうか。それを知らない「ただの人」はなぜ、知らないことを通じて、普遍的たりうるのだろうか。そのつながりとその普遍性とを支えているのがあの「単数性としての自己の場」、実定性としての自己の内にある普遍性である。「ここにいる私たちは何者か」という限定された問いのほうが「われわれは何者か」という形式として普遍的なそれより、これをうまく問うことが出来れば、普遍的なのだ。脱テクスト論もまた、これと同じ道を通る。