わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

『武満徹 没後10年、鳴り響くイメージ』

 デヴィッド・シルヴィアンとの対談。三十歳近く歳が離れたこのふたりが友人であることがすでに驚きなのだけれど、対等の立場から芸術論を交わし、それが討論とならずに調和し、さらにはお互いの体験や考えを述べることで自身の芸術論を深めあう、というなんとも美しい対談になっている。
 最後の部分で、武満は

 たしかに国際化と言うか、実際地球は狭くなってきているわけで、一つの惑星としてのグローバルな立場で人間は物事を考えなければならないところまで来ているけれど、実際には、いま私たちが、これからいちばん恐れなければならないのはナショナリズムなんです。それは目に見えない形で、悪魔的な形にだんだん姿をあらわしてくるだろう。

 と語っている。この対談、92年に行われているから今から14年前。おそるべき予見力、と驚いた。当時と比べると、明らかに日本はナショナリズムの色を濃くしている。これは他国も同様だろう。これを食い止めるのが音楽をはじめとする芸術の役割だ、という部分でふたりの意見は一致する。つづいてデヴィッドの発言。

 だからこそ、ぼくたちは内面的な自己、内面的な存在ということをもっと考えなければいけないと思うんです。もしそれをしなければ、私たちはもっとナショナリズムとか、愛国主義とか、そういった方向に行くと思います。こういうナショナリズムというものは、人間が不安だから、何かアイデンティティを求めて出てくるものだと思うんです。(中略)しかし、自分の内面に安心と愛と責任というものを感じれば、そういった荷物は必要がないはずだと思います。

 例えば、サッカーの試合。Jリーグの注目度は以前ほどではないのに、ワールドカップとなると国民全体が熱狂的になる。ぼくも(熱狂的というレベルではないが)ワールドカップの日本の試合は観てしまう。こういった部分に、国=共同幻想に熱狂することでアイデンティティを忘れるという危険が潜んではいまいか。これは自分自身、前々から感じていたことなので、そうなんだよデヴィッド!と叫びたくなってしまった。
 デヴィッドはこうもつづけている。

 芸術というのは愛の延長にすぎないと思うし、芸術は愛の一つの行為だと考えていますので、そういうことを追求している人たちは自然に集まってきて、そして協力をすることができると考えています。

 美しいものを美しいと感じることができるひとにしか、芸術はできない。ということは、「美しいものを美しいと感じる」ことって、実は愛の基本なんじゃないかな。そんなことを考えてしまった。
 もっとも、ぼくには愛の本質とやらがよくわからない。

武満徹 (KAWADE道の手帖)

武満徹 (KAWADE道の手帖)