わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』

 保坂和志の小説論『小説の自由』に歩み寄るようなカタチで「散文論」が展開されるのだが、相変わらず荒川洋治の、詩人から見た小説論の引用がバンスカバンスカと。猫田道子の『うわさのベーコン』を論破したときは拍手喝采!と思ったが、川崎徹のあたりでは引用しながら持論を展開することの危うさばかりが際立ってしまっていた。荒川の引用とそれへの論考がどの方向へ向かうのかが心配。
 それはさておき、源一郎氏は本作で小説の道具であると言える散文を徹底的に批判している(というか、散文が信じられなくなっている)ように見える。

 小説もまた、実は、「家だ、白い!」と書いてあるのに、ぼくたちは、目の前にある、その(小説の)現実を読まず、ぼくたち自身の知覚を信じず、もしかしたら、「白い屋根の家が、何軒か、並んでいる」と、(想像の中で)再構成された、もう一つの、別の、(非現実の)小説を、読んでいるのではないだろうか。
 だとするなら、ぼくたちは、彫刻家が彫刻の前に立つように、画家が絵の前に立つように、音楽家が音楽に耳をかたむけるように、小説の前に立たなければならない。だが、彫刻家や画家や音楽家は、無言で過ごすことができても、「散文」への翻訳を拒否できても、ぼくたちは、そうすべきではないと、ぼくは感じる。
 そこは、「習慣であり決まり」であるような「散文」と、そうではない「散文」が激突する戦場なのだ。

 源一郎氏の言う「そうではない『散文』」の重要性はとてもよくわかる。だが、散文/韻文という二項対立で文学を考えること自体にちょっと危うさを感じてしまう。小説家が散文を否定するということは、大工が、本当はノコギリを使えばいいのにノミを使って角材を切ろうとするような、ちょっと無茶な感じ(疲れるし、うまく仕上がりもしないだけ)がしてしまう。それに、現段階では源一郎氏は小説において重要な「行間」を無視しているような気がする。「行間」=省略だとすれば、本作の前半でそれは触れられているけれど、そうではない部分、よりミクロな意味での行間、ことばとことばの間にはさまる息づかいのようなものから生まれる効果については、小説家である源一郎氏自身、肉体感覚的によくわかっていると思うのだが、どうなのだろう。行間の重要性は韻文にも共通していると思うしなあ。