わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

伊藤比呂美『ラニーニャ』読了

 「ハウス・プラント」よりわかりにくい作品だが、印象的なラストシーンで一気に読者を惹き付ける。
 前夫から逃げだすように渡米し、アメリカ人の内縁の夫(?)、娘ふたりと暮らす「あたし」に、つぎつぎと襲いかかる不幸。不幸は連鎖しながら、さまざまな二律背反を生み出してゆく。ラニーニャとはエルニーニョの対語であり、この「不幸の二律背反」の象徴なのかもしれない。エルニーニョの向こう岸にラニーニャがあるように、ある不幸の向こう側に、別の形の不幸が見え隠れする。
 ラスト、「あたし」は娘たちとともに一時帰国をする。現夫とは一時的とはいえ離れ離れになるというのに、どういうわけだろう、このラストシーンは本作のなかで唯一、家族全員が強く結びつくような感覚に満ちている。別れることで、ひとつになれる。ラニーニャエルニーニョが対の存在であるように。ここまで読み進めてようやく、ぼくは何かに救われたような気がした(それまで、ずっと疑問符をアタマに浮かべた状態で読んでいたのです)。
 ところが、ようやくひとつになれたというのに、家族はみな好き勝手であることをやめない。感傷的な別れの挨拶をした直後だというのに、娘たちは現夫が使っている車いすを拝借し、それでクルクルまわって遊びはじめるのだ。一見能天気で不条理な雰囲気すら漂うラストなのだが、実はこれこそが本当の家族のあるべき姿なのではないか、と思えてしまうのはなぜだろう。心の結びつきを確認することで、はじめてひとは自由になれるのではないか。それが見えなかったから、家族も「あたし」も、不幸の連鎖のなかで、不幸の二律背反に振り回されつづけていた。だから、もうこの家族は大丈夫だ。不幸の連鎖は止まらないかもしれない。だが、振り回されることはない。

ラニーニャ

ラニーニャ