わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

金井美恵子『岸辺のない海』読了

 酒が入って、そこそこ酔った状態で読了するというのは珍しいこと。作品を読み誤っているかもしれないけれど、まあ今の自分にはこう読めたのだから、書いちゃうことにするよ。
 世を憂い、自分の生まれたこと、そして生きていること、人を愛することをも憂いながら生きる男の、言葉による、終わることのない再生の「過程」を描いた物語、とでも言うべきか。
 自己を否定し、抹消してしまいたいと願う、強力な(厭世観にもとづく?)自己否定願望に、主人公は取り憑かれている。自己否定を実現するには、自己を第三者的に分析することが必要。その唯一の方法が「書く」という行為なのだ。だから、彼は自分の生そのものを小説として書く。しかし、彼は書けば書くほど自己否定が自己肯定へと変化していくことにも気づいている。自己否定モードのときの彼は恐ろしくねじまがった言動を繰り返すが、自己肯定の片鱗が芽生えると(あるいは隠れていた自己肯定願望が顔を出すと)、逆にこっけいに見えるほど自分を憐れみ、それまでの生き方を否定することで自身を再生させようとする。
 作品の土台になっているのは、「(昭和三十年代から四十年代にかけての)常識的な生き方」という共同幻想なのかな、と思う。この共同幻想からいったん離れること、それは時代から脱輪してしまった自己を認めることであり、開き直り的な自己否定につながる。しかし、それは自分の存在価値の確認と肯定なのだ。そして、同時にそれは自分の存在価値の否定にもつながる。肯定と否定を行ったり来たりする。その不安定な状態から、いったいどんな未来が生まれるというのか。まさに一寸先は闇、読んでいて、まったく何も見えてこない。読者が想像力を働かせること自体、作品が拒んでいるようにすら思えてしまうのだ。
 読者は、この作品のどこに、どんな価値を、そしてどんな未来を見出せばいいのだろうか。わからない。何も見えてこない。ただ、見えてこないと自覚できたことだけが、唯一の価値なのかもしれない。
 うーん。これほど読後感の悪い作品は久しぶり。金井の初期の代表作と言っても過言ではないのだろうけれど、やはりぼくは、金井作品は目白モノが好きだなあ。

岸辺のない海 (1974年)

岸辺のない海 (1974年)