わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

小阪修平『現代思想のゆくえ』

 「第4章 経験と理念」。80年代は相対主義の時代で、それが90年代になると崩壊しはじめたのはなぜか、というようなことが延々と、小阪さんらしい語り(言葉、と言ったほうが適切か)で展開される。
 理念だのイデアだの、そういったものの認識・理解に偏重していた哲学は記号論構造主義を機に、事象事象との連関、たとえば言葉と物みたいなことだの音声と文字みたいなことだの、にテーマが移っていったとぼくは理解しているのだが、それに主体性、〈わたし〉の問題をからめて考えたものを「相対主義」と理解していい、のかな。湾岸戦争勃発時に有識者だの有名人だのが平和憲法を守る運動を展開したらしいのだが(9.11以降の動きは知っているけど、この時代のことはよく覚えていないんだよなあ)、その運動の参加者にいとうせいこうがいて、いとうが「平和憲法というものを自分の理念として選ぶことを決意した。それは相対主義の泥沼にあきあきしたからで、趣味で決断した」といった主旨のことを発言している(らしい)ことに小阪は驚き、平和の重要性はさておき、思想的な姿勢として「相対主義にあきたから、逆戻りする、一応『趣味』というセーブをかけて昔の理念(=戦後の平和主義)をもちだすというのは、一種の理念の飛び移りに見え」ると批判する。
 平和を理念に掲げるのは素晴らしいことだと思うが、安易に理念を持ち出しそれにすがろうとする姿勢は、ぼく個人としても危険さを感じる。なぜなら、これがマイノリティの排除と社会の表層的なフラット化につながるから。平均化された表層は、深層部分で大きな差別を生み出してしまう。思想的にも、経済的にも、生活的にも。多くの企業が理念を明確化し、社員にそれを遵守させることで企業文化や企業倫理を構築しようとしているが、どこかはりぼてっぽくて裏表がはっきりしているような気がしてしまう。コピーライターのぼくがこんなことを感じてしまうのは言語道断かもしれぬが、コピーライターという立場ゆえに、それをより強く感じているとも言える。悲しいことだが。それはさておき、引用。

 相対主義がでてきた変化は、この市民社会の、個人を個別化するという原理にも規定されています。個人が個別化されるなかで、これまでの理念もっていた見せかけの普遍性がじつは中身のないものであったことが気づかれていったわけです。そして「豊かに」なった市民社会は、個人の個別的な欲望に、さまざまなカイロをあたえるほどには成熟してきたということです。だが、しかし市民社会は個人が自由に自分の可能性に従って生きるというのとはほど遠い社会です。市民社会の個人はばらばらの個人でありながら、何十物複雑な関係のなかに生きています。それは、いいかえると、個人が、ばらばらで偶然的な個jんという「事実」のなかにとじこめられているということでもあります。そこでブラックボックスになってしまうのが、ぼくたちが他人と関わりあいながら生きているという「事実」です。
(どーんと中略)
 自分というのは個別の人間です。とくに経験は自分のものでしかないということを重要視すると、その個別性が浮き立ちます。ところがことばというのはどっかで一般的な意味をもたざるを得ません。そうするといったいそういったことをどうやって他人に言えるんだ。こううことをかんがえだすと、どんな価値も正しいことも、ぼく一人で思っているにすぎないんじゃないかという相対主義がでてきて、それは懐疑主義、真理なんてないよというのにつながってきます。ぼくがいとうせいこう君の書いたのを見て「はあ」と思ったのは、かれら自身も自分たちのやっていたのが相対主義だったというのをよく自覚してたということですね。
(中略)いとうせいこう君がやったことは、人間は相対主義だけでは基本的に満足できないものをもってしまっているんだ、ということを立証しているように思います。
 そして、そういう相対的な状況に満足できない部分が、ある理念にとびうつるという現象が起きる。そこには、自分をある場所に固定し、あることばをちがう経験をもった他者によびかけるということおが含まれます。したがって、表面的に見ると「相対的な状況」あるいは「他者との差異性」の地平から、「絶対」の地平に飛びうつったようにも見えます。じゃどこでその絶対がつかめるか。いったい人びとがちがう経験をしながら、しかしそのなかに絶対みたいなものはあるんだろうか。こういうことが理念ということばにつながる一番重要なことだと思うんですね。もちろん一番簡単に絶対を信じるためには、これはほんとうに神様を信じれば一番楽なわけです。

 ところが、二十一世紀になると、その「神」までもが相対化していることがわかってしまう。神の相対化、すなわち宗教対立。やっぱり、相対主義のなれの果てが、9.11を起こしてしまったのか……などと考えてしまった。
 今日読んだ部分で、小阪は「パースペクティブ」という独自の概念をベースに、理念と事象の往還についても言及している。理念に往きっぱなしじゃダメ、ということ、なのかな。

現代社会のゆくえ

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