わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

サイレン

 五時五十五分ごろ、ケータイの地震警報の音で目が覚めた。あの音に恐怖を覚える人は多いのではないか。半年前は繰り返し何度も鳴り、そのたびに立ち上がって猫たちがいる場所を確認し、タンスなどが倒れても大丈夫なように気を配り、避難に備えた。ひと鳴りごとに慣れるのではないか、と期待というのは不謹慎だが、そんなことを考えることも幾度かあったものの、まったく慣れることはなかった。戦中、空襲警報が鳴ったときもこんな気分になるのだろうか、と想像を巡らしてみたこともあったが、戦中のほうが人々はしたたかだったのだろう、死への覚悟がまるで違う、生きようとする意志もまるで違うのではないか、と思ったところで考えはそこから発展することも後戻りすることもなく途絶えた。そうこうしているうちに、いつの間にかあの音は聞かなくなった。鳴らなくなった。震災から一月経ち、二月経ち、三月経ち、と少しずつ日常を取り戻すにつれ、あの惨状、そして同時に生まれた連帯と再生への強い意思は当たり前のように薄れ、今では多少それをわきまえておくことが常識というかマナーというか、その程度のものだ、と誰も口にはせぬものの、そう思っているような風潮が被災地以外の各地に広がっているような気がする。あの音が鳴らないから記憶も決意も希薄になるのだろうか。それはさておき、あの音が今朝、久々になった。飛び起き、震災直後の頃はこの音を聞いてから一体何をしていたっけ、と浅い記憶を寝惚けたアタマで辿り、ひとまず猫たちの眠る場所を確認してから、すぐにテレビの電源を入れた。すぐに震源地やマグニチュードの情報が伝えられる。大丈夫そうだ。ならば、と二度寝を決め込もうとしたが、目が冴えてしまって眠れなかった。六時二十分、きちんと起床。
 雨。ド雨。冬の初めのド雨。寒いのだが、氷雨と呼ぶには雨足が容赦なさ過ぎる。
 日中は仕事。午後には雨がやんだようだ。
 昼食。乾麺のそばを三人前も食べてしまった。
 夕方、散歩を兼ねて小一時間ほど買い出しへ。気づけば路肩に溜まる桜の枯れ葉の量で季節を推し量るようになっている。
 十八時三十分、仕事終了。カミサンが個展会場に行っているので、夕食をつくった。ホワイトシチュー。具をゴロンゴロンになるようデカく切った。
 十九時四十分ごろ、カミサン帰宅。二十時過ぎ、夕食。カミサン、具のでかさに驚いていた。