わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

三輪休雪。既成概念を超えるということ。

 五時四十分起床。爆笑問題と大騒ぎする夢を見た。

 日曜日だが、今日も仕事。この状況下で本当にありがたいのだが、受注量に対して作業量が追いついていない。これはぼくの場合だけかもしれないが、クライアントが在宅でリモートワークになるとメールの量が増えるということも関係していそうだ。届くたびに手が止まる。だが、メールを書く効率を考えれば2〜3通を1通にまとめることができそうな内容もある。今日は休日だから、メールが届くことはない。

 妻は個展会場「猫の額」へ。ありがたいことに、お客さまの数は減ってはいるものの予想ほどではなく、在廊日に客足が途絶えることもほぼないのだそうだ。

 

 夕方、業務終了。帰ってきた妻と入れ替わりでランニングへ。マスク(フェイスガードだけど)着用でのランニングは通常より疲れるので距離は短めにしている。7kmちょい走ったが、10km走った時と同じくらいの負荷を感じる。ウォーキングの人もランナーも多かったなあ。ノルディックウォークしているおじいちゃんもいた。

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 夕食はピッコロッソのピザを食べた。


 二十時から、Eテレ日曜美術館」の再放送。「萩焼 三輪休雪の世界」を観た。萩焼はちょっと女性的な柔らかさがあって好きなのだが、現在「三輪休雪」を襲名している十三代目の作品は、そんなぼくが勝手に抱いていた萩焼のイメージとはまったく異なる、荒々しく猛々しい、そして自然への畏敬の念に満ちた陶芸作品だった。「エル・キャピタン」と名づけられた、まさにあの崖のような意匠の茶碗や、大地からそのまま生えてきたかのような存在感の花器の、唯一無二の造形に感動した。抽象系の彫刻のような美がある。茶碗を作る時は茶碗をつくろうとすると既成概念に縛られてしまうから、茶碗を作ろうとしないで造形し(日本刀を使って土を削っていく)、最終的に茶碗として仕上げるのだそうだ。たしかに、茶碗としてつくろうとしたらエル・キャピタンにはならないだろう。陳腐な表現を借りれば逆転の発想なのだが、そんな言葉では片付けられないほど、圧倒的なエネルギーがこの陶芸家にはある。陶芸の範疇から大きくはみ出たアート作品をつくりつづける十二代目の作品もすごかった。

 

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▼こちらは十二代目の作品。現在は三輪龍氣生と名乗っていらっしゃる。

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▼十二代の作品集。上のものは展覧会の図録みたい。 

 『陶 愛と死の融合―十二代三輪休雪展』

 

『軟らかい海 十二代三輪休雪』

 

『軟らかい海』のAmazonでの紹介文にあった、おそらく本人のお言葉だと思うのだが、印象的なので流用。こういうセリフは正直言って芸術の世界には溢れかえっているが、陶芸の殻をあっさりとぶち破ってしまった十二代目が口にしたとなると、重みがかなり変わってくる。

 

作品を創るということは自分の分身を創るということなんだ。器を作ったってバケツと同じ単なる容器を作るのではない。器という形をした君自身を創るんだ。だから、花瓶に花を生けるということは、君自身に花を挿すということなんだ。つまり器も生きた人間になっていなければ花も美しく見えないんだ。死んでいるものでは駄目だ。君たちが土に指を触れた瞬間から、その土を生きものに変えるのだ。