わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

ゲルハルト・ケップフ『フクロウの眼』

 第二十二章。ボルヘス不在説。というより、作者のボルヘスに対する並々ならぬ愛情表現。
 ある男がボロクソな飛行機で乗り合わせた老人と会話を交わすのだが、そこでの老人のセリフが魅力的だったので引用。男は、それはボルヘスの言葉ではないかと訊ねるが、老人は別の詩人の名を挙げる。そして物語は、「ボルヘスの不在」へと一気になだれ込みはじめる…。

「存在するだけでじゅうぶん旅をすることになります。ただ想像力のきわめて弱いところは、感じるためには場所を換えなければならないということです。どんな道も、たとえ鴨猟の池から来るこの道でさえ、世界の果てへと誘ってくれます。けれども世界を完全にひとめぐりしてしまうともう、世界の果ては出発したのと同じ池だということになってしまう。じっさい、世界の果てと行っても世界のはじまりと同じことで、ようするに私たちの世界観のことなのです。ですから私は風景を想像することによってつくり上げます。つくればそれは存在します。存在すれば、ほかの風景と同様見ることができます。わざわざ旅をする必要がどこにありますか。私がマドリードにいようと、ベルリンにいようと、ペルシアにいようと、中国や、南極・北極にいようと、私自身の内面に、私自身の近くのありようの中にいるのとどこがちがいますか。人生とは、私たちが人生からつくり上げるもののことです。旅とは旅人のことです。私たちに見えるのは、私たちが見るものではなく、存在する私たちのありようなのです」

 内容はイデア的な二元論だけど、語りそのものに惹かれてしまう。

ふくろうの眼 (文学の冒険)

ふくろうの眼 (文学の冒険)

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