わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

教えてあげたかったが黙っていた

 六時四十五分起床。夜には寝室にもなる書斎の岩目調の曇りガラスからは、外の様子はまるで窺えない。光は差しこまず、厚く暗い雰囲気だけが間接的に伝わってくる。
 午前中は某生命保険会社の企画。十二時、かかりつけの医院へ。先日のレントゲンと血液検査の結果、肺炎の心配はないとのこと。気管支炎のようだが、快方に向かっているらしい。ひとまず安心。
 午後から新橋で打ち合わせ。銀座線が朝のラッシュアワー並みの混雑で辟易した。朝と大きくことなるのは、初老の女性、いわゆるおばちゃんたちがたくさん乗っていたこと。彼女らはたちまちホワイトカラーの胸や背中でできた壁にうずもれてしまう。そのうずもれた谷間から、混雑に対する不平不満愚痴の類が漏れてくる。それはこだまし、車両のあちこちから、似たような声がリレーされてゆく。
 打ち合わせ終了後、カミサンと新宿の伊勢丹で合流。「Y's for men/Yohji Yamamoto pour homme」のセールに突撃する。ひどくごったがえしていたが、ほとんどがこのブランドにあまり馴染みがなさそうなひとたち。安くなっているから、たけしの映画の衣装なんかもやってるらしいヨウジってヤツを買ってみるか、というところだろうが、気紛れにワンアイテム買ったところでコーディネートしにくくて困ってしまうよ、と教えてあげたかったが黙っていた。必要最小限のものだけを買うことに。Yohjiの黒のシャツ1枚、Y'sのカーキ色のシャツ1枚、Y'sの黒皮のベルト1本。Yohjiの剣襟が取り外し可能なウールギャバジンのジャケットがとても気に入ってしまったのだが、来シーズンの立ち上がりに期待しているので泣く泣く購入を断念した。カミサンは、「Y's」でセーター、カーディガン、カットソーを買ったようだ。
 荻窪へ。インド菜食料理の店「ナタラジ」で夕食。ほうれん草とカッテージチーズのカレー、キャベツコロッケの入ったかぼちゃのカレー。前者はほうれん草の甘味がちょっと青のりっぽくて美味。後者、コロッケに意外性があって楽しい。コロッケだけれど、食感はちょっとメンチっぽい。デザートに、カミサンはマンゴーをヨーグルトクリームで和えたねちゃねちゃしているものを、ぼくはキールというちょっとスパイスの入ったライスプディングを食べた。腹ぱんぱん。

ドドンッコドン、トポンッコトン

 BGMにHarbie Hancockを聴きはじめるも、管楽器の音がどうも耳障りに思えて、それではピアノだ、ピアノトリオだ、ということでJohn Taylor。ソロもいいよね、とKeithも聴いた。

覚醒

覚醒

Paris Concert

Paris Concert

 夜は、インド料理店「ナタラジ」で聴いたドドンッコドン、トポンッコトン、と鳴るインド音楽のタブラの音が耳から離れず。David Sylvianの作品に、インドの音楽家のタルヴィン・シンが参加した曲があることを思い出し、今はそれを聴いている。
Camphor

Camphor

参考:タルヴィン・シン
HA!

HA!

ぷいとあおーん

 花子には、明け方から早朝にかけて、自分が眠くなければ廊下や玄関を徘徊するクセがある。麦次郎、早朝に廊下をうろつく花子の気配に気づいたようで、会いたいよー、会いたいよー、と大騒ぎ。コイツの声は猫にしてはデカイ。オス独特の野太さはなく、どちらかというと高めの情けない部類の声色なのだが、それでもあおーん、あおーんと繰り返しなかれれば十分に睡眠妨害になる。ぼくは起きていたからいいが、まだ寝ていたカミサンはたまったもんじゃない。
 今日はカミサンが先に家を出た。ぼくが出るまでの一時間くらい、花子はカミサンが近所におつかいに行ったか何かで、すぐに帰ってくると思い込んだらしく、ずっと玄関でおすわりをしてカミサンの帰宅を待ちつづけている。まだ帰ってこないよ、と教えてやると、ぷいと背を向けどこかに行ってしまった。

 ぷちぷち、37g。昼間はちょっと吐きそうになったりしていたが、今は元気。ダイエットの影響で体調を壊しかけていたのかもしれない。与えるゴハンの量、考え直さないと…。

金井美恵子『噂の娘』

 主人公の少女は、どうやら自分たちが美容室のマダムの家に預けられている理由が父の浮気にある、ということを知りショックを受ける。
 語り手は小学生の少女だが、大人の言葉で描写されている。つまり、この作品は大人になったある女性が、小学生のころの出来事を回想しているということ。しかし、語り手は決して感傷的になったり当時のエピソードに極度な感情移入をしたりしない。分裂的とも思えるほどの客観性で、記憶をたどり、緻密に語りつづけている。この、語り手と文体・視点のギャップが本作の価値を決めているのかもしれない。