わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

依存/共依存について

 共依存という言葉がある。簡単に言えば「自分自身を大切にしたり自分自身の問題に向き合うより、身近な他人(配偶者、親族、恋人、友人など)の問題ばかりに気を向けて、その問題の後始末に没頭する」状態に陥った者のことであり、心の病一種である。ここから先は心理学なりメンタルケアなりの専門書でも参照してもらいたい。ぼくが考えたいのは、この単語の三文字中二文字を占める「依存」である。
 ヒーラーやスピリチュアルカウンセラーと称して他人の精神的な癒しを生業とする、あるいは将来的にそうなろうとして現在修業中である友人が何人かいる。彼女たちは(偶然なのか、その全員が女性だ)口を揃えて「依存はよくない」と言う。他の存在を頼りにすることで、自分の存在を維持あるいは改善しようとする、と言葉の意味を書いてみると、なるほど確かによい意味を持ってはいないようだ。だがここで、ぼくのような馬鹿チンは大きな壁にぶつかってしまう。依存の定義、依存の範疇という問題だ。
 どこからどこまでが依存なのかが、上に書いた定義では見えてこないのだ。人間という存在は社会、すなわち人間同士の関係においてのみ存在しつづけることができる。この社会は価値の交換によってなりたっているのは言うまでもないだろう。魚屋は魚という商品=価値を売ることによって貨幣を得、得た貨幣を用いて、八百屋から大根という商品=価値を手に入れる。ここに依存がないと言いきれるのか。魚屋は自分自身の人脈や流通経路からでは大根を手に入れることができない。だから八百屋から大根を買う。魚屋が大根を手に入れるには、八百屋に依存するしかないのだ。両者の間には貨幣という価値の媒介者が存在するが、これがなくても依存の関係は変わらない。いや、貨幣の存在は「金で解決すればいいや」という安易な発想すら生み出してしまうのではないか。
 すなわち、人間社会、貨幣経済そのものが、巨大な「依存」という概念の上でしか成り立たないのではないか、とぼくはつい考えてしまうのだ。そして、貨幣が「依存」の土台になるなら、言語も依存の土台である。なぜなら、人間同士のコミュニケーションに使われる「言葉」とは、それ自体が情報という価値を含んでいるからだ。価値の流れがあれば、必ずその背後に依存がある。依存とは、価値交換のことなのだ。
 いや、価値交換は依存ではない、と反論するひともいるだろう。そうだと思う。ぼくも金を払って大根を手に入れたり、他者から情報を得ることが依存そのものだとは思わない。ぼくがはっきりさせたいのは、その根拠なのだ。
 夫婦生活というものを考えてみる。夫は働いて、つまり社会に労働時間や能力といった価値を提供する等価代償として、給与や報酬を得る。妻は自宅で生活を成立させるための家事にいそしむ、つまり家庭内に労働時間や能力などの価値を活用することで、夫婦生活そのものを維持する。ここで、家事をせぬ夫は妻に家事を依存していると言えるのか。収入のない妻は夫に経済的に依存していると言えるのか。言えないのは明白だ。なぜなら、両者は依存などしていないからだ。互いの存在を信頼している。
 貨幣経済が巨大な「依存」でないと断言できるのは、貨幣価値が信頼の上で成立しているからだ。人間関係において、信頼とは依存を依存にさせない重要な要素なのだ。
 もっとも、依存を生み出すのは信頼の欠落だけではない。過剰な信頼は大きな依存を生むようだ。「私は魚屋だから魚を売る、大根は八百屋に任せよう」「夫が働いてくれるから、わたしは代わりに家事をやる」は信頼関係が成立していると言えるが、「私は魚屋だから大根は売らなくていいや、八百屋がいるから」「夫が働いてくれるから、わたしは働かなくていいや」になると立派な依存だ。魚屋が大根を売っても問題はないし(むしろサンマを買いに来た客にとっては、大根がそこで買えることは大きな価値になるだろう)、妻が空いた時間を使って働き収入を得ることも悪いことではない。ここで気づくことがひとつある。怠惰が過剰な信頼を生むということだ。自ら動こうとしないなら、他人に動いてもらうしかない。
 と、あれこれ駄文をつらねてしまったが、ここまで書いてようやく「依存」なるものの実体が見えてきた。ところで、なぜ依存や共依存が悪いのか。外的な存在に行動や判断を頼ることによって、自分の能力や価値がわからなくなるからか。なぜなら自分を知り、自分を愛することができなければ、自分の力を活かすことはできないからだ。依存はそれを困難にする。先に挙げたヒーラーの友人たちは「依存するひとはマイナス思考になる」「依存するひとは先入観が強すぎる」「依存するひとはひとの意見にすぐ流される」「依存するひとは…」とあれこれネガティブなことを並べて依存の悪さを説明してくれるが、なぜ依存がそのような状態を呼び起こすのかを説明してくれたひとは(ゼロではないが)ほとんどいない。自分で考えろ、ということなのか。それとも彼女たち自身、それを考えている最中でまだ結論は出ていないということなのか。自分の能力や価値がわからなくなってもいいのではないか、とぼくはついつい考えてしまうが、間違っているのだろうか。わからない、というのは生きるためのひとつの方法だ。わかろうとする。その過程こそが生きるということなのではないか。
 依存や共依存が自己の可能性を大きく狭めてしまうのは間違いないだろう。卑小化された存在から、すぐに大きな価値が生まれることはない。まず卑小からの脱却があり、価値の創造はその次の段階にある。ならば、依存はダメと断言してもいいかもしれない。
 だが、依存はよくないと指摘し依存する人間を戒めようとする側にも、依存が隠れていることを忘れてはならない。「あなたは依存している」と言ったとき、発言した人間の心には「私は相手と比べて『どんな存在にも依存していない』という点において優れている。だから私は、この相手を指導しなければならない」という考えなり感情、優越感が潜んではいまいか。ここでもう一度、共依存の簡単な定義を記しておこう。「自分自身を大切にしたり自分自身の問題に向き合うより、身近な他人(配偶者、親族、恋人、友人など)の問題ばかりに気を向けて、その問題の後始末に没頭する」
 つくづく、自分は指導者やヒーラーには向いていないと思う。
 
 六時三十分起床。終日作業に没頭する。T大学広報誌企画、通販会社のカタログ企画。早めに仕事が片づいたので、夕方整骨院に行く。寝違え、だいぶよくなってきた。

 大江『さようなら、わたしの本よ!』。ドキュメンタリーフィルムづくり。
 そうそう。夕べから松岡正剛『フラジャイル』も読みはじめている。ちょっとだけ引用。
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 私は「弱さ」を「強さ」からの一方的な縮退だとか、尻尾を巻いた敗走だとはおもっていない。むしろ弱々しいことそれ自体の中に、何か格別な、到底無視しがたい消息が隠れているとおもっている。
 結論を言うようだが、「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。「弱さ」というそれ自体の特徴をもった劇的でピアニッシモな現象なのである。それは、些細でこわれやすく、はかなくて脆弱で、あとずさりするような異質を秘め、大半の論理から逸脱するような未知の振動体でしかないようなのに、ときに深すぎるほど大胆で、とびきり過敏な超越をあらわすものなのだ。部分でしかなく、引きちぎられた断片でしかないようなのに、ときに全体をおびやかし、総体に抵抗する透明な微細力をもっているのである。
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 なるほど、魅力的な人物なり道具は、みな「弱さ」をもっている。『サイボーグ009』の島村ジョーは、改造人間という「強さ」をもっているにも関わらず、あまりに人間的すぎる優しさという「弱さ」をもっていた。「鉄人28号」は、驚異的な破壊力を持っている一方、リモコンを手にするものによってしか動かすことができないという「弱さ」があった。人間とは、完全無欠、無敵の超人を目標としながらも、無欠無敵である存在を「つまらん」と考えるようである。