わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

町田康『告白』読了

 偶然見つけた洞窟で思索にふけり、言葉との不一致性に苦しみながらも弥五郎に思うことすべてを告げようとする熊太郎。しかし、完全にそれを伝えることはできない。できない、ということが、迷いにつながる。迷い、ということが、殺人につながる。逃げつづけることの意味がわからなくなった熊太郎は、弥五郎を殺害し、自らもその命を絶つ。
 本の帯には「人はなぜ人を殺すのか」とある。本作は、そんなことよりも、思念と言葉の不一致性、ねじれとは何なのか。それを町田流に突き詰めようとした作品だと言える。その持論を物語として語る=言葉にしようとする町田もまた、思念と言葉の不一致性に苦しまなければならない。随所に表れる「あぱぱ」だとか「にゅめんが空から」といったわけのわからぬ表現は、苦しみの中から偶発的に生まれる愉楽である。不思議な言葉たちは、必ずしも作者の考え、意図を完全に伝え切れいているものではない。しかし、だからこそそこに愉しさがあり、文学の、いや言葉の魅力がある。熊太郎は、このパラドックス的な言葉の魅力を知ることがなかった。
 しかし、もし熊がより豊かな言葉を手にしていたら、物語は変わったのだろうか。
 現代人は、情報の洪水の中で様々な言葉を吸収し、そしてそれを口にしたり綴ったりすることで、情報の洪水の中へ還元する。その出し戻しの作業が、豊かと言えるか。わけのわからぬ発言を繰り返すことで熊太郎は結果的に苦しんでいたが、その苦しみは、現代人が漠と抱える虚無的な、意味の空洞化しかけた言葉が生む価値よりもつまらぬものと断言できるのか。熊太郎は、弥太郎を殺害する直前に、自己の救いを願いつづけても、その果てには荒野、虚無しかないと悟る。もし熊が豊かな言葉で自己の救いを願ったとしても、結論はなんら変わらないのではないか。ならば、悲劇を生み出さぬようにするために、言葉にできることとは何か。
 言葉は、ねじれており、そしてまずしい。しかしニンゲンは、その言葉を使わなければならないのだ、荒野以外の何かを見つけるために。そんなことを考えさせられた一冊だった。

告白

告白