わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

ぱっつんぱっつんからちらりほらりへ

 七時起床。日課のゴミ出しのためにジャージとサンダルで外に出て、思いがけぬ寒さに身を縮めた。風は北西からか。真冬の厳しい鋭利さこそないが、面でおしよせる春の突風のようだというのに冷たく感じる。三寒四温。今日は三寒の極みにあたるということか。空から陽は差してこない。雲も平坦で、強い風に流れているのかすらわからない。向かいの一戸建ての桃の花が散りはじめていた。桃には青空が似合うのだが、と思いながら部屋に戻った。次の四温が待ち遠しい。
 午前中は外出。小石川のL社へ。そそくさと某生命保険会社の打ち合わせを済ませ、、帰社/帰宅。
 荻窪駅の北口から西へ向かう途中に、荻寺という密教系の寺がある。荻寺はたしか俗称だったはずだ。正式名称は思い出せない。ここの境内を抜けて帰るのが近道で、信仰の念もないのに罰当たりなもんだ、と感じながらもしょっちゅう使わせていただいている。通行者のために作ったらしい境内の横の遊歩道が、小さな植物園になっているのが楽しいというのも近道する理由のひとつである。梅は散りはじめ、都落ちした貴族の女のようなはかなさをつい想像してしまう。桃も盛りを過ぎた。だが一方でぼけの花が満開だ。寺から離れると、すぐそばの、数年前までは幼稚園だった建物の庭から道路へ大きくせり出している古い桜の木がある。つぼみがぱっつんぱっつんに膨らんでいるだろうな、などと考えつつ見上げてみると、すでにちらほらと花開いていた。繊細な花びらは曇り空に紛れてしまいそうなくらい薄い。それが、よく目を凝らせばひとつ、ふたつと数えられるくらいの少なさではあるが、点々とほころんでいる。春の花の繊細さは、どこかに少女のようなもろさがある。梅の成熟した女性のような優雅さのなかにも、やはりもろさと弱さはある。桃にも、そして桜にも。たいていは散り際にそれを感じるのだが、桜だけは別なようだ。咲きはじめに、弱々しい生命の淡さを感じる。それが次第に、強くなる。他の存在を、圧倒する。圧倒しながら、散る。散りながらもなお、他の何かを圧倒している。
 午後からは某団体パンフレットに終始。予定より幾分はやく終ったので散歩に出かけた。来週からは激務が待っている。息抜きは今のうち。