わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

師匠

 六時三十分起床。午前中は内幸町の某IT企業で新規案件の打ち合わせ。最高気温は十二度。彼岸前の寒さに戻ったようだが、風に非情な鋭さはなく、雲に陰鬱な深さはない。春とは気まぐれな天気と、それに翻弄されながらも存在しつづけようとする新しい生命との闘いの季節だ。まだ枝先に、葉や散りカスの額などに圧倒されながらも残りつづける桜の花に目を向ければ、寒いという感覚はたちまち消える。
 帰社/帰宅後は昨日の四件立て続け打ち合わせで生じた作業を黙々とこなす。
 夜、ドラマ「Happy!」を観る。相武紗季ちゃんがかわいいのなんの。外見は原作の海野幸と全然違うけれど、うまく消化していると思う。賀来菊子役の夏川純ちゃんも、違うんじゃないの、と思っていたが、そのうちどう見てもお菊さんにしか見えなくなってきた。借金取り役の宮迫もいい味出してる。小林妹の演技はどうかと思ったけど。続編観たいなあ。

「Happy!」を観て思った。振り返るに、ぼくは師匠にはあまり恵まれていなかった。
 高校時代は陸上部で三段跳びと100メートルに明け暮れていた。三段跳びでは地区予選程度なら敵なし、関東大会に出場できるくらいの選手にはなれた。が、記録がぐんぐん伸びはじめたのは師匠であった顧問のL先生が別の高校に転属になってからだ。高校二年の終わりだった。後任の顧問は陸上競技の経験がなかった。だからぼくらは、自分たちで練習のメニューをつくり、自分たちで自分たちを管理した。すると、不思議と記録が伸びた。試合に出るたびに遠くへ跳べるようになる。楽しくて仕方ないから、練習にもチカラが入る。練習すれば、記録は伸びる。意欲が増すから、一流選手の跳び方の研究にも熱心になる。悪循環ということばがあるが、当時のぼくは好循環にうまく乗っていた。師は必要ない、と当時は本気で思っていた。自分で学べば、道は開ける。
 しかし、それが顧問の先生の試合申し込み手続きの不備というアクシデントでストップしてしまった。引退試合と腹をくくっていた最後のジャンプに挑戦できぬまま、幕を引くことになってしまった。
 それ以来、師匠と呼べる存在とめぐり会っても関係が長くつづかない。あるいは師匠のいない状態で、独学をつづけることになる。社会人になってクリエイティブの世界に飛び込み仕事を覚えたが、当時さんざんぼくを叱り飛ばしてくれた岡本一宣さんとはすっかり関係が途絶えてしまった。OJTでついていた先輩とも連絡はとっていない。この方は信頼できる、と慕っていた本部長がいたが他界してしまった。当時独立したものの、もといた会社の上層部からどういうわけかにらまれてしまい、それが原因で本部長の葬儀には顔を出せなかった。コピーライターとなってからも、その技術は読書や勉強、実務経験、そして日々の「アンテナ(世の中を注意深く観察し、記録/記憶し、自分の言葉にする作業をそう呼んでいる)」でつちかった。最近興味をもったスピリチュアルな方面については猫ヶ島のしまちゃんやヒーラーのゆうりさんはぼくの師匠と呼べるとは思うが、両者とも最近は師弟というよりは友人同士という感覚に近い。それは、ぼくがスピリチュアルな世界に対して、興味はあるもののちょっと距離を置いているからなのだが、まあ、それは別の話。
 師匠なき人生。どうやらそれが宿命らしいと近ごろは諦めている。それでも師と慕っている方が皆無というわけではない。むしろ、師匠に失礼を重ねつづけている自分としては少々照れくさいしウソくさくもあることなのだが、数少ないからこそ大切にしなければという思いが、どこかにある。だから、その数少ない師匠には、常に師匠であってほしいと切に願っている。下手なことはしてほしくない。弱みは見せてほしくない。ニンゲンなのだから、ときには窮地に追い込まれ、思い悩むこともあるだろう。追い込まれるな、悩むななどと言うつもりはないが、追い込まれても、悩んでも、誇りだけは失ってほしくない。他人を指導したことがあり、それがたとえデキの悪い弟子だったとしても、その過程は、そこでの様々なやりとりと、そこから生まれた感情、そして記憶、それらはみな「誇り」の一部と呼べるのではないか。それを捨ててほしくないのだ。なぜなら、それらの蓄積が弟子にとってはもちろん、師匠自身にとっての成長につながるからだ。弟子は師でもある、ということか。
 ニンゲンくさい弱みは、いくら見せてもらってもいい。ただ、その見せ方にはつねにソンゲンと信念のフィルターを通してもらいたいのだ。そのフィルターが破れてしまえば、たちまち師は師と呼べない存在になる。師弟関係に悲しみが満ちてくる。
 思い返してみる。師に失礼を重ねつづけたぼくではあるが、そのフィルターが破れるところを見たことはこれまでほとんどないようだ。幸せ者というべきか。
 これからも、見たくはないと思う。だが、フィルターが悲しみで今にも破れそうになっていることは、何度かあった。
 もし自分を師と呼んでくれる人がいるのなら、彼らにフィルターの破れる瞬間は絶対に見せたくない。いや、逆に自分のフィルターをおしつけてやるほどの厚かましい師になってやろうじゃないか。うっとおしがられるだけの話かもしれぬが。
 なんだか、とりとめなくなってしまった。いや、「Happy!」の海野幸の師匠って誰なのかな、なんて思ったから書いたんだけどさ。よくわからない。でも彼女は、いろんなニンゲンに支えられている。その関係が、気持ちいい。