わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

東京国立博物館・平成館 仏像特別展 一木に込められた祈り

 あの「伊藤若冲展」を開催した場所である。さぞかしスゴイのだろうと期待していた。仏教に多少の関心があったというのもある(篤い信仰がある、というのではない)。だが、正直言って期待外れ。寺院に行くのは好きで、そこで仏像を眺めるのも好きなのだが、ぼくはその仏像のある空間、寺院建築全体をあわせてそれを楽しんでいる。それが、仏様だけ剥き身にされてどーんと並んでいる状態では、感慨深さは湧いてこない。
 展示された作品を純粋な美術品としてみても、円空のプリミティブな力強さとユニークな造形以外はさほど心奪われなかった。国宝の「十一面観音菩薩立像」は端正な美しさ、ある種の美の極致があったが、それは下世話な例えば言えば、パリコレのモデルを見ているような感覚に近い。それよりも、性格や個性、特長がはっきりわかる女優さんやタレント、アイドルのほうが親近感は湧きやすい。これとおなじようなことが仏像の鑑賞にもいえるのではないか。端正すぎるのだ。美しすぎるのだ。奈良・平安期以降の造形技術的にも精緻を極めた作品が多かったように思えるが、それらが創り上げた仏は慈愛に満ちた表情と柔和な身体の線を異常なほどに重視している。それが当時の社会情勢の裏返し、よの泰平を願う信仰心から生まれたことはよくわかるが、あまりにもその表情が理想的過ぎて、俗な心を持ったぼくには少々つまらなく思えるのだ。仏像には、磔刑に去れたキリストの十字架の悲壮さはない。ほとんどの仏画には、キリストの受難を描いた絵画の悲しさはない。ぼくはルオーという画家のキリストを描いた作品が大好きなのだが、その理由は、そこにはニンゲンが抱く無意識的な底知れない不安と、それを払いのけるほんのわずかな可能性、ニンゲンの体温とかやさしさとか、そういったものの同居が感じられるからだ。今回展示された仏像のほとんどは、それが読み取れない。これが物足りなさの原因なのだと思う。
 そもそも現代社会において、(剥き身された)仏像という存在の価値を、何に見出せばいいのかがよくわからない。現代における信仰とは何か、そんなことまで考えさせられた。問題提起という点では、秀逸な企画展ではある。