わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』

「死んだ人はお経やお祈りを聞くことができますか?」という章。中学生までの子どもたちに対して行われたアンケートで子どもたちの死の観念が曖昧になっているという結果が出た、という話から、文学は死者との対話をテーマにしつづけてきた、それこそが文学のひとつの役割なのではないか、といった説へ展開してゆく。たしかに、ぼくらは死=無だと(物理的に? 法的に?)考える一方で、死者に、様々なカタチで語りかける。お経だったり、祈りだったり、お願いだったり、グチだったり。
 タカハシゲンイチロウ自身の幼少時の体験(というか考えたこと)の紹介がおもしろかったので、かなり長いが引用。

 アンケートを作った先生がいうように、小学校入学以前に、わたしには、ある種の死生観が生まれていました。それは、生けとし生けるものはみな死す、というものでした。
 5歳か6歳の頃、わたしは、自分が死ねば完全に無になって消滅すると考えていました。そして、それがどういうことなのか、想像しようと試みさえしました。
 もちろん、それは失敗に終わりました。自分が「無」である状態を想像することなど不可能だったのです。いま思うなら、5歳か6歳の頃のわたしは、かなりいい線をいっていたのです。
 つまり、5歳か6歳のわたしは、直観的に、「死者」を内側から描写することは不可能だと考えていたのです。「死者」のことなど理解できない、「死者」とはコミュニケートできない、と考えていたのです。小学生や、それより幼い子どもたちが侮れないのは、彼らが、本来、唯物論者だからです。
 しかし、わたしは、徐々に、文学や小説というものを読むようになりました。つまり、世間とか社会というものにさらされるようになったのです。
 すると、彼らは(文学や小説や世間や社会は)、わたしに、「死者」とはコミュニケートできる存在なのだと説得しはじめました。