わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

古井由吉+松浦寿輝「対談 音声の回復と現代文学の可能性」

「群像」3月号より。パソコンによる安易な文章作成の実現とインターネットの普及による安易な情報発信の実現が、言葉のバブル状態を生み出している、と二氏は語る。「安易」とはぼくの解釈による言葉で、二人はこれをもう少し感覚的な表現、例えば恐怖感の欠落のような意味のコンテクストで伝えようとしているけれど、ロジックは緻密。
 言葉でメシを喰う者としてこの意見には同感。おそらくは、現在日本で最高の言語芸術を創造できる小説家のひとりである古井氏の発言を、少々長いが引用。

(前略)ただ、恐怖に面したときに、言葉は崩れる。しかしまた、恐怖は言葉の生まれるところのひとつではないか。だから、危機、クライシスがこの世界全体なり個人なりに迫ったときに、言葉に活が入る。(中略)
 はじめに言葉がありきというけれど、いつもいつもはじめの言葉を待っている。言葉があって、それから始まる、と考えている。充足した言葉があって、そこから現実がはじまる、とそう願うところだが、しかしまた言葉が尽きて表現が危機と恐怖とにもろにさらされた極限からはじめての言葉が出る、とも考えられる。いずれにしても、言葉から現実がはじまる。幻想といわれればそれまでだけど、この幻想が文学の本質でもあるんです。

  これに対する松浦氏の発言もおもしろかった。

 言葉が尽きずに、改行もなしにとめどなく流れつづけてゆくことの恐怖というのが、いまの時代の姿なのかも知れません。しかしそれを崩れと観るという感受性それ自体が、こんなに萎えてしまっているのではねえ。

 表現という行為には、つねに恐怖がつきまとう。たとえそれが笑いのための表現であろうと、だ。