園芸についてを、ニンゲンの死とおなじ感覚で語っている。おなじイノチある生物であるが、死への向き会い方が違う。だから、とつなげるべきか、しかし、とつなげるべきかよくわからないのだが、伊藤は植物に対し「殺す」というコトバを何のためらいもなく、ごく普通に、自然に使う。その使いっぷりが衝撃的。引用。
手で切って殺すことはないんですか、とわたしはききました。
死ぬにまかせるんですよ、と園芸家はいいました。
あら、あたしはいたしますよ、どんどん切り戻してやるうちに、やっぱりだめだなとわかってきてますでしょ、もうどうやっても元には戻らないと、そうしたらひと思いに、剪定ばさみで、ばっちんと根本から切り落としてやる。
いやぼくは、そこまではしないけど、といいながら園芸家は、奇妙な、心当たりのあるような顔をしました。枯らす、枯らす、枯らして殺す、死屍累々、死のことは考え詰めているという顔をしました。
(中略)
植物にとっての「死ぬ」は「死なない」で「死なない」は「生きる」なんですもの、とわたしはさらにいいました。