講談社文芸文庫から出ている連作短篇集。
「祈りのように」。会社での、部内の者の不正の責任を取って退職したものの、その後精神を病み、当初は一進一退を繰り返していたものの、やがてじわじわと悪化し、そのまま病院で亡くなった男と、それを看病し看取った妻のエピソード。自責と後悔の先にある狂気、そしてさらにその先にあった死。そこに至るまでに、男は深夜に病院の廊下を徘徊しながら、少しずつ未来を失い、過去もまた失い、時間の幅をせばめてゆく。つまり、自分自身をせばめていく……。
ちょっと気になったところを引用。まずは妻が、病院の外塀から夫の入院する病室を見上げて「あなた、もう楽になってください」と呼びかけたあとのシーン。夫のモノローグ。
--物事はありのままに考えなくてはならない。あたえられたままに。
入院の当初、病人は何かにつけてそう言った。問題の渦中にあったときに取った態度には違いないが、自身の心の乱れもおさめられない今となって、その言葉だけが痼って、いたずらに口から出てくるのが、夫人にはいたましく感じられた。
--自分の勝手に考えてはならないのだ。まずまっすぐに事態を見なくてはならない。しかし、見たくないことは多い……。
嘆きに変わることもあり、そんな時、夫人はかえって安心させられた。
--見たくないばかりに、人はいろいろなことをするのだろうな。それが生きることか。となると、見ると言うことはすでに、死んだ者たちのほうへつくことになるか。
病人の嘆きが妙なほうへ迷いこんでも、夫人はそれも望みの糸に思われ、だから、見ないようにして生きましょうよ、二人で、見なくてはいけないのなら死んだ人たちのほうへついてしまいましょう、二人で、とくどきかけた。
次に、ラスト直前。夫が死に、残された妻が夫の入院生活を回想するシーン。
主人は四年もかけて、だんだんに亡くなったもので、と夫人は人に話したことがある。《中略》あの塀の内で病人はだんだんに、時間を失っていったというよりも、時間のほうがゆっくりと背を向けて離れていったように、今からは思われる。《中略》
夫はせっかく記憶から解放されて亡くなったのだから、残された者がわざわざ夫の無念をつなぎとめることはないのだ、と夫人は念園そう思って暮らした。ところが三年を過ぎた頃からときおり、もしかすると夫の時間はまだすっかり尽きてはいないのではないか、と奇妙なことを考えるようになった。往生しきれていないというような暗いことではなかった。夫はまだどこかで、歩き回るのはもうやめて、ただ立っている。静かだった。それもとうに静まり果てたようではなくて、かすかに溶けのこり消えのこり、いよいよ静まっていく。《後略》
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