第十二章「コギーの伝記と憑坐(よりまし)」。東京から「森の家」を訪れたウナイコの彼氏と古義人の対談。彼氏は古義人の作品の読者対象の狭さや和訳と英訳の両方を併記しての詩の引用による翻訳のしにくさ、それに由来する古義人作品を翻訳化した場合の対訳のおもしろさの実現不可能性、主人公を自分自身をモデルにした人物に設定することによる作品の矮小化、などなど、さまざまな部分をツッコんでくる。これらは大江さん自身の自己分析なんだろうなあ。まさに「晩期の仕事(レイト・ワーク)」。
本章のラスト、ちょっと気になったので長いけど引用。エリオットの翻訳について。
深瀬訳はこうね、《こんな切れっぱしでわたしはわたしの崩壊を支えてきた》、この一行の前にある、ダンテやネルヴァールの引用をひとまとめに、こんな切れっぱしといってる。それらでわたしの崩壊を支えてきた。原詩は、こうですね、"These fragments I have shored against my ruins"
ぼくのこれまでの読みとりは、このわたしが崩壊に(ruinsに)いたりかねないところにいて、こう考えた、というものです。難破の危機をなんとか乗り切ろうと……そしてこんな切れっぱしだが大事に陸まで運んで来た……私の読み方はshoredの、陸揚げした、上陸させた、という語感に引きずられています。いまや自分は陸の上にある。こんな切れっぱしに過ぎないものによって、なんとか崩壊からまぬがれることができた……やっと、という安堵感を共有するふうに、この一行を受けとめていた。
それがそうではないと理解しなおしたいわけ。自分はいまも現に崩壊に瀕しているんだ、それをなんとか持ちこたえようとしてるんだ、と。そしてこれらの切れっぱしがいまも頼りなんだ、と。そうなれば、エリオットの原詩と、あいまいなところのある深瀬役とが、この上なくしっくり合体する……
- 作者: 大江健三郎
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