わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

野間宏「暗い絵」読了

 戦前の、京都大学に通う左翼の若者たちのささやかな、しかし野望に満ちた日常、そして未来への不安を、ブリューゲルのグロテスクな絵画作品をフィルターにして、巧みに語っている。ブリューゲル作品の描写はもとより、自然の描写が異様な緊張感とともに激しい焦点移動を繰り返していて、これが若者たちの心の揺らぎの暗喩になっているように思えた。
 主人公・深見は左翼思想を抱きながらも左翼仲間たちと深く関係を結び本格的に政治活動を行うことができずにいる。戸惑っていた彼は転向し戦中戦後を生き抜くことができかたが、ほかの仲間たちは思想をつらぬき獄中死することになる。迷う者、こだわりを捨てる者が生きのこる時代。これは皮肉すぎるのだが、同時に震災後の現在の原発に対する人々のスタンスに似ているのではないか、となぜか思ってしまった。というか、そう読み取らざるをえない。もちろん野間宏にそんな作意はないわけなのだが……。
 左翼仲間たちとの会合のあと、彼らと別れて深見がひとりで月夜の道を歩くシーンは、心に大きな痛みとわだかまりを感じつつも、不思議な恍惚感と自由な感覚に満ちている。この自由さこそが、本作が書かれた1946年という時代の空気感なのかもしれない。だとすれば、震災後を生きるぼくたちも、痛みとわだかまりを感じつつ、自由にならなければいけないのではないか。ちょっと長いけど引用。

 俺はいよいよ独りになった。そう、俺はもう一度俺のところへ帰ってきたのだ。正に俺のいるところへ。あの空の星々の運行のみが、あの高みから、宇宙の全力をもって俺の背骨を支えてくれるところに帰ってきたのである。俺はもう一度、俺自身のそこからくぐり出なければならない。と深見進介は考えた。そう、常に俺自身のそこから俺自身を破ってくぐり出ながら上っていく道、それを俺は世界に宣言しなければならない。彼は、いま彼の中に帰ってきた若者の若々しい大きな呼吸をもった荒々しい力に、頭の真上から鷲掴みにされれながら、歩いて行った。背骨がのび、筋肉の隅々にその若者の心が満ち拡がっているような、のびのびとした感情が彼を把え、彼の頬は明るい夜の空気の中にうちから輝き出して来る。《そうだ。》と彼は思う。《やはり、仕方のない正しさではない。仕方のない正しさをもう一度真直ぐに、しゃんと直さなければならない。それが俺の役割だ。そしてこれは誰かがやらなければならないんだ》

暗い絵・顔の中の赤い月 (講談社文芸文庫)

暗い絵・顔の中の赤い月 (講談社文芸文庫)

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