「群像」2015年6月号掲載。近代科学とは「経験」に対する不信から「実験」という手法を確立することによって生まれたが、これは知性の絶対性を確立したというわけではなく、逆に知性に対するより深い不信を生み出してしまっている、と著者は説く。知性はいくら実験を重ね論証を繰り返したところで存在の絶対性には永遠に到達できないからだ。つまり、経験とは誤りの可能性を常に伴うという逆説的なものを本質的に内包している。この、懐疑を内包した矛盾した構造こそが、キリスト教の本質であり、さらには西洋における「国王」という存在の本質でもある、と著者は持論を展開していく。国王という存在が「経験の担い手であり肉体的な不完全性を伴う存在としての国王」と「政治的な主導者であり(国の存続を通じて、ということなんだろうけれど)不死の持続性を持つ超越的存在としての国王」という二面性を持つ、という考え方は、西洋だけでなく日本の天皇にも当てはまるような気がする。