わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

批評

雨上がりでもないのに

五時四十分起床。やや涼しい朝。観葉植物をベランダに出して陽に当て、水をたっぷり与えた。 午前中は仕事。某IT企業Web、某食品会社パンフレット。なんとか予定していたところまで終わったので、午後は休みに。夕方、妻と荻窪駅方面まで歩くと、雨上がりで…

涼麺二種。

五時四十分起床。夕べもアイスノン枕で快適に眠れている。 早朝から掃除。妻は通院のため外出。ぼくは到着したあたらしいウォーターサーバーの組立とセッティング。浄水器タイプの「フレシャス」に買い換えた。コンパクトで、なかなかいい感じ。 荻窪の西友…

冷凍室から

四時、暑さで目が覚めた。トイレを済ませ、べたついた顔を洗い、キッチンで水を飲み、冷凍室からアイスノン枕を取り出した。しばらくは眠れないかと思ったが、アイスノンの冷たさですぐ体が冷えたようで、たちまち二度寝。そして五時四十分起床。 昨夜のラン…

客観で主観を

五時四十分起床。 朝から仕事。書斎で延々と某案件のコピーを書きつづけた。それなりにはかどってはいるのだが、ちょこちょことヤフーや新聞社のサイトを除いては、新型コロナのニュースをチェックしてしまう。怖れや自己防衛本能とは少し違う感覚だな、とい…

吉祥寺美術館へ/季節と女と鳥

五時四十分起床。朝風呂。語感はすがすがしいが、マンション住まいで風呂に窓がないから爽快さはさほど感じない。 午前中は掃除やらアイロンやらに終始。 午後は夕食用のラムカレーをつくってから外出。吉祥寺までやや遠回りで歩き、美容室に行っていた妻と…

命に想いを馳せる日、みたいな

六時二十分起床。朝から葵と少し遊ぶ。 連休の中日、彼岸。秋分の日はたしか、亡くなった命に想いを馳せる日、みたいな定義があったような。 掃除、アイロン。だらだらと家事をこなし、少し本を読み、夜は走る。結局、いつもとたいして変わらない一日。ラン…

顔料袋

六時二十分起床。微かに降ったかと思えばいつの間にかやみ、いつ降るのか、強くなるのか、それともやむのか、と妙に気がかりになる、そんな色の空。 午前中は掃除に精を出す。 午後は妻と三鷹へ。三鷹市美術ギャラリーで「横山操展」を観る。パステルで描い…

鷲田清一『素手のふるまい』

芸術の、ボランティアやワークショップというかたちでの社会との関わり方。社会的には異形の存在と見なされる可能性もあるアーティストたちの、社会への積極的な働きかけ。関わることから生まれる新しい価値。芸術家は孤独な存在、という既成概念はすでに崩…

大澤真幸「〈世界史〉の哲学」近代篇13 〈増殖する知〉のふしぎ

「群像」2017年12月号掲載。 近代科学の根本的な特徴は「知の蓄積性」にあるが、そこには、人間はどんなに科学的に知を積み上げていってもそれらはすべて仮説に過ぎず、この世界の真実すべてを把握し理解することはできない、だから知は終わることなく求め続…

大澤真幸「〈世界史〉の哲学」近代編10 終わりなき終わり

「群像」2017年9月号掲載。資本主義以前の社会形態(貨幣、あるいは交換価値そのものが存在しない時代)と、資本主義との本質的な違いを、「労働」のあり方に求めている。より具体的にいえば、その労働は誰のためのものか、という問題。非資本主義(前資本主…

三浦雅士「言語の政治学」(最終回)

「群像」2017年8月号掲載の最終回。まだ最初の数ページしか読んでいないのだが、最後の最後で、視覚的であり図形的であるという点で言語表現と相似するバレエによる身体表現について論考している。ちなみに著者は、バレエ専門誌の編集者をしていた経歴を持つ…

大澤真幸「〈世界史〉の哲学 近代篇7 〈金貨/紙幣〉としての貨幣」

「群像」2017年5月号掲載。 貨幣の発生と流通の過程を考えることは、この世界を形づくる、あるいは動かしている価値や基本原理を考えることにつながる。お金にならない価値がある、みたいな話も当然あるわけだが、その価値の伝播・拡散や自分自身が得る満足…

三浦雅士「言語の政治学(8)」 土着と外来

井筒俊彦の仏教論にヘーゲルの「精神現象学」、アウフヘーベンをぶっつけて思いきり批判。おもしろいんだけど、ヘーゲルって理解しきれないんだよねえ。 精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200)) 作者: G.W.F.ヘーゲル,樫山欽四郎 出版社/メーカー: 平凡…

佐々木敦「新・私小説論(12) 一人称の発見まで(承前)」

「群像」2017年2月号掲載。 一人称とは何か。文学作品における語り手の一人称、日本語の一人称といった問題から、「作者と作品を切り離して読む」というロラン・バルトのテクスト論をすり抜けるように否定しつつ、佐々木は「作者0」という概念を提唱する。読…

佐々木敦「新・私小説論」(9)

「群像」2016年11月号掲載。副題は「「一人称」の発見まで」。 近代に到るまで、日本の文学には人称が明確に存在しておらず、この概念が確立したのは言文一致体の二葉亭、美妙の仕事による。そして谷崎の人称に対する意識と理解の高さについて。 日本語は非…

佐々木敦「新・私小説論」第五回 反(半?)・私小説作家たち

「群像」2016年4月号掲載。 大江健三郎が若い頃に書いた「私小説ABC」を起点に、私小説に対する痛烈な批判が展開される。戦後の私小説の定形は志賀直哉によって確立されたとされるが、大江だけでなく、大岡昇平もが、私的なことを書くことの浅さ、「私」にこ…

佐々木敦「新・私小説論 第一回 「わたしの小説」と「一人称の小説」」

「群像」2015年10月号掲載。以前不定期連載していた評論「新しい小説のために」の最終章のタイトルが変更になってしまった。それくらい「私小説」は現代の日本の文学において重たくてわけのわからないテーマということになるのだろうけれど、正直、私小説ら…

大澤真幸「〈世界史〉の哲学 近世篇18 知性の不安」

「群像」2015年6月号掲載。近代科学とは「経験」に対する不信から「実験」という手法を確立することによって生まれたが、これは知性の絶対性を確立したというわけではなく、逆に知性に対するより深い不信を生み出してしまっている、と著者は説く。知性はいく…

鷲田清一「ひとを「選ぶ」?」

「群像」2015年2月号掲載のエッセイ。年末の衆議院選挙に対する痛烈な批判、かと思いきや、実は内容はもっと深く、選挙の本質である「(自分の代わりとして)他人を選ぶ」ということの重さについて語っている。人を選ぶということは、条件に合致するといった…

大澤真幸「〈世界史〉の哲学 近世篇15 宗教と世俗化のERP相関」

「群像」2015年2月号掲載。 近代化とは啓蒙や合理化によって社会が世俗化し宗教の機能が限定化されること、と冒頭に定義した上で、著者は西洋の近代化は、実は宗教の機能を限定してはおらず、むしろ世俗化と宗教化が同時に進行している、と指摘している。「E…

大澤真幸「〈世界史〉の哲学 近世篇14 聖地の受肉」

「群像」2015年1月号掲載。イスラムも中国もモンゴルも征服欲は大陸・内地へと向かっていったというのに、なぜヨーロッパだけが海を越えることができたのか、という疑問を出発点に、イスラム教とのキリスト教の「聖地」に対する考え方の違いを考察している。…

今年おもしろかったもの 2014年

《文学》 ※新刊だけ個人的には、小説という表現形態がつまらないと思いかけていた一年だったから、振り返ってみるとこんなに良い作品があったということに驚いてしまった。やっぱり小説の可能性は無限だ。・金井美恵子『お勝手太平記』・古井由吉『鐘の渡り…

平野啓一郎×大澤真幸「予測不可能な未来を生きる」

「群像」2014年12月号掲載。 気鋭の小説家と思想家の対談。平野啓一郎の新刊『「生命力」の行方』の発行記念対談というところだろうか。平野が唱える「分人主義」の思想を起点に、ポストモダンと分人との関連性、資本主義の起源とシステム、そして今後の問題…

三浦雅士『身体の零度 何が近代を成立させたか』読了

「近代化とは、人間の身体機能や身体特徴の、あるいは身体に込めた意味の、均質化や白紙化(=身体の零度)とともにある」という三浦さんの考察が最後に行き着くのは、現代(本作が書かれた'94年現代)における最高芸術としての「舞踊」だ。現代において舞踊…

大澤真幸/熊野純彦/鷲田清一「批評とは何か」読了

「群像」11月号掲載。小説に書かれるシンギュラリティー(特異性)、その先にある、作者すらも気づいていなかったかもしれぬ普遍性を読み取り、顕在化までの経緯を鮮やかに描き出すこと、それこそが批評の役割なのだ、と大澤氏は説く。ぼくが惹かれる小説は…

大澤真幸/熊野純彦/鷲田清一「批評とは何か」

「群像」2014年11月号掲載。アカデミズムと現代の批評・評論シーンとの距離感、そしてなによりも、論文と評論の違いという問題が、よくわかる。ぼくが興味をもつのは、評論であり、批評だ。このベクトルで戦いつづけているのが、このテーマについて話しあっ…

大澤真幸「〈世界史〉の哲学 近世篇13 世界の中心へ、縁へ、海へ」

「群像」11月号掲載。世界=経済として近代世界システム、すなわち資本主義の起源は十六世紀にあるという主張から今回ははじまる。 カール・シュミットの「人間は本質的に陸の動物であるが、純粋に大地的ではなく、海を志向する要素も合わせ持っている」と定…