わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

佐々木敦「新・私小説論 第一回 「わたしの小説」と「一人称の小説」」

「群像」2015年10月号掲載。以前不定期連載していた評論「新しい小説のために」の最終章のタイトルが変更になってしまった。それくらい「私小説」は現代の日本の文学において重たくてわけのわからないテーマということになるのだろうけれど、正直、私小説らしい私小説なんて現代に存在するのか? と思っていたぼくの浅い知識や先入観は、この第一回を読んで見事に吹っ飛んだ。本文で紹介されている「移人称」という手法は確かに近年増えているし、本当らしい自分自身を虚構の中で語ることで作品世界を展開していく私小説的(だけれどホントのところどうだかわからん)な作品は、青木淳悟とか保坂和志とか、大御所では大江健三郎とか、ホントに増えてるもんね。

 そもそも「私小説論」という作品が、小林秀雄にあるらしいのだが、読んでないんだよなあ。高校の時の現代文の先生が「ぼくは小林秀雄がだいっきらい」と授業中に発言したのがきっかけで、偶発的受動的に読んだことはあるけれど、自分から進んで読んだことがまったくない。あの一言がきっかけで、なーんとなく遠い存在になっちゃったんだよね。ほんと、教師は自分の好みを生徒に押し付けたらだめだ。いや、「好き」は多少押し付けていいけど(高校の美術の先生はシュルレアリスムや抽象画などのおもしろさを授業での制作体験を通じて教えてくれた)、嫌いは押し付けちゃだめでしょ。ふう。

 

 

群像 2015年 10 月号 [雑誌]

群像 2015年 10 月号 [雑誌]

 

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