「群像」2015年10月号掲載。西洋における「王の二つの身体」に至るプロセスの一部として、著者は「祖国patria」という概念を引っ張り出す。ぼくらの感覚では、祖国とは自分の生まれ育ったこの国のことを指すわけだが、キリスト教文化においては、祖国とは神の国すなわちここではないどこかであり、そしてその神の国とは、キリスト教の特性として聖地がコロコロと変わったり増えたりということの延長として、十字軍の遠征先などなど、信者の行動(征服ともいう)によってどんどん増えていく。だから西洋には、ヨークという地名は普通に生きているのに、新大陸の土地に「ニューヨーク」という名前を付けてしまったりする。ここに、終末思想を持つキリスト教の教義においては相いれない「永遠」という概念が、実は神という超越的存在においてのみは時間を超えた(あるいは無時間という)概念として存在する、という考え方を紹介し、さて、これらがどんなふうに「王の二つの身体」につながるのか、というところで次号。ふう。