五時四十分起床。雨。まだ窓を開けていないのに、空が、空気が、重いと感じる。部屋にこもった湿気がなおさらそう感じさせるのだろう、と科学的な根拠のまるでない仮説に勝手に納得しながら身支度。ところがいざ窓を開けてみるとベランダの手摺の濡れ具合はそれほどでもなく、雲も思ったほどの暗さや重さもなく、低く垂れ込めた印象もない。まあ、それでも降る、それが梅雨だよな、などと小さく独りごちた。すると、葵がゲロをした。
日曜だが、午前中だけ仕事。
午後は妻と、青梅街道沿いにできたヤオコーを覗きに行ってみたが、とんでもない混雑。安くなっていたさくらんぼを買おうかと思ったものの、バブル期のバーゲン期間の伊勢丹みたいな混み具合なので諦めた。少し人出が落ち着いてから楽しもう。
ヤオコーから西荻のコープに向かう途中で、トケイバナ、トケイソウを見かけた。
蓮實重彦「大江健三郎「私」論 『晩年様式集』をめぐって」(「群像」2025年7月号)を少し。大江さんの「最後の小説」である『晩年様式集』を、文中に登場する「私」という言葉(の頻度の異様な高さ)に注目して、(そしてテキスト論的に、実在の人物であり主人公=古義人のモデルと思われる大江健三郎本人とは切り離して)読み解こうとする試み…みたいだ。蓮實さんが今もこんな文芸評論をするということがちょっと驚き。ここ数年は映画論が多かったもんな。




