わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

節介

 六時起床。雨であることに気づくと失望することが多いが、梅雨時はなんとも思わなくなる。ああ降っているな、とまず考える。次に降り具合に意識が向かう。霧雨なのか、小雨なのか。風はあるのか。蒸すのか。暑いのか。ここまで来ると、失望する要素が徐々に増えてくる。霧雨は濡れる、小雨で傘を持ち歩くのは面倒だ、蒸すと疲れる、暑いと集中できなくなる。云々。
 思えば勝手な話だ。自然に文句をつけても、人間に合わせてあげようなんておせっかいをやいてくれるはずもない。もっとも、自然をつかさどる何か、神のごとき存在がほんとうにあるのなら、ひょっとすればそれはおせっかいやきなのかもしれぬ。つきつめて考えるに――信仰心篤いひとからは不謹慎と叱られそうだが――、概して奇跡とはそういうものなのだろう。だが、人懐こくてしつこい神なんぞぼくは信仰したくない。そう思うとますます自分が、自分を含めた人間が身勝手に思えてくる。
 人間に神のおせっかいはほとんど通じなかった。気づいてもらえなかった。現在もおそらく通じていない。自然は逆に、おせっかいであることを拒絶する。季節という大きな期目ごとに緩やかに従いながら、雨を降らせ、風を吹かせ、気温を上げたり下げたりする。植物をはぐくみ、動物を養い、土壌を育て、空をいたわる。時には正反対のこともする。自然とは意識なき意思である、とでも言うべきか。
 意識なき意思。そんな存在をもっと明確に感じ取り、自然の微細だが大きな、緩やかだが急な変化に感謝する気持ちが芽生えたら。古代の自然信仰とは、こんな感覚に由来するのではないか。それはそうと、まずは今朝のさほど強くない雨と、さほど暑くない気温、ゆるやかな雨滴と空気の流れに感謝したい。
 
 七時、事務所へ。証券会社パンフレット。ひさびさに頁数のある案件なので苦労する。ラジコンメーカーのウェブサイトも。ダメ出し。はじめての代理店、はじめてのクライアントである。感触が掴めないのは仕方ないだろう。修正しながらスタイルを確立したい。
 
 大神神社から神符が届く。気になったので祀り方を調べたが、ほんとうは神棚が必要らしい。中央に天照大神を、右に氏神を、左に信仰のあるほかの神を祀る。向きは東か南向きだ。塩、米、水を供え、日々感謝の気持ちを二礼二拝一礼とともに伝える。神棚は換えないが、せめて水くらいは毎日供えたいと思う。
 
 脳がつかれたので、読書はせず。ちょこっと『週刊モーニング』を読んだ程度だ。