わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

伝心/船漕

 五時三十分、また花子のフニャンだ。すぐに身体を起こしてゴハンを与え、三十分ほどいっしょに寝た。といっても添い寝したわけではない。見える場所に横たわって、自分はここにいるぞ、と存在を示しただけだ。いる。いることがわかる。いることに確信がもてる。それだけで飼い猫とは心が落ち着くものなのだろうか。離れていても心はひとつ、などと言い出すとたちまち軽はずみで怪しい雰囲気がしてくるが、以心伝心、心がどこかで通じているということはある。ならば違う場所で、声ならわかるが寝息は聞えぬ程度に離れた場所で眠ったとしても、心は落ち着き、満ち足りるとまでは言わなくても、ある種の安定はあるはずだ。花子は何がほしいのだろう。たんなる気まぐれ、で片づければ話はそれまでだが、ほじくり返してみたくて仕方がない。これもまた花子への愛情の現れなのだろうか。
 
 七時、事務所へ。玄関を出てすぐは、一晩中降った雨に冷された外気が肌に沁みるように感じたが、五分も歩けば汗ばんでくる。傘をもつ手がわずらわしくなる。鞄をもち、傘をもつ。これで二本とも忙しくなる。なら顔に滴る汗はどうすればいいのか。鞄を置いてハンカチでぬぐうか、傘を差すのをやめて雨に流させるか。
 立ち止まって、ぬぐえばいい。結論が出るころには事務所に着いていた。
 
 カラオケチェーン企画、証券会社パンフレット。夕方、書き上げた原稿をチェックしていたらいつの間にか夢の中にいることに気づいた。よくは覚えていないが、誰かとしきりに話している。待て、そんなことをしているほど暇ではない、と思うと現実に引き戻され、コクリコクリとアタマで船を漕いでいる自分に気づく。眠ってしまったのはほんの数秒だろうが、直前の仕事の記憶はどういうわけか消し飛ぶ。思い出しながら手を動かし、ちょっと進んだところでまた、いつの間にやら誰かとの会話がつづくのか、違うひとと話しはじめているのかはよく覚えていないが、ともかく違う世界、夢の世界に行ってしまう。船を漕ぐ。これが数分足らずだがつづいたようだ。仕方ないので十五分ほど仮眠した。
 
 二十時三十分、店じまい。西友で特価のお刺し身を買って夕食にしたが、ひどい味だった。裁いたあと、身をしばらくの間、生ぬるい手でぎゅっと握りしめていたのではないか。そんな味。
 
 古井由吉『仮往生伝試文』。短編が挿入されていた。往生ではなく、ふた昔くらい前の男女の暮らし、情事と妊娠。死をテーマにした小説の中で、新たな生命のめばえが描かれる。だが作者はその新たな生命にまったく光を当てようとしない。そこに至る経緯、死人のごとく暮らしながらも、肌を重ねて相手の死んだような肉体を感じずには、自分の死んだような生を死んでいないものと確信することができない。生きるとは少しずつ狂うことだ、と作者はこの作品の別の場所で書いた。ならば、狂気とは生を死と、死を生と倒錯的に捉えることなのかもしれない。