わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

酷似と反復

なんとなく童顔でしょ。

 気が緩みすぎているのか。目覚めても、結局睡魔に負ける。慌てて起きなくとも十分仕事をこなせる自信がある、ということでもあるが、だからといって、六時半に起きようと強く決心し目覚ましもしっかりセットしたつもりが、その目覚ましのセット自体に過ちがあった、いや時刻の設定はしたが、肝心のアラームを鳴らすスイッチを入れ忘れていた、とはどういうことだ。これでは鳴らない。鳴ったら故障だ。鳴らなかったからおそらく故障はしていまい。ときどき目覚ましの故障を遅刻の理由にあげるひとがいるが、今朝のぼくの場合、目覚ましはちっとも壊れていないのだから、故障したのはぼくのほうだ。
 と、ここまで書いて、内容が昨日の日記に異様に酷似していることに気付いた。おなじ毎日の繰り返し。ああ、進歩がない。
 
 終日、ITベンダーのPR誌に集中。午前中、チラリと銀行へ。夕方、雨が上がったのを見計らって整骨院でマッサージを受けた。
 
 カミサン、昨日とは別の整形外科へ。膝にたまった水を注射器で抜いてもらったそうだ。さほど痛くはないらしい。本人も、出かけるまえは痛そうだ痛そうだと大騒ぎしていたが、帰ってからはケロリとしている。
 
 近ごろ、麦次郎の写真写りが昔よりよくなってきたような気がする。花子は写真より実物のほうがかわいい。麦の場合は、逆だった。現物のほうが、やぼったい。写真の方がりりしいのだ。それが最近、花子と基本的には別々の部屋で一日の大半を過ごすようになり、そして一方でぼくらニンゲンが終日(おなじ部屋にいるわけではないが)いっしょにいるためか、どうも精神も外見も子ども返りをしてしまったようである。しかも、幼少のときの麦次郎とは別の麦次郎に戻っている。と書くとおかしな感じだが、そうとしか言いようがないから不思議だ。
 
 大江『さようなら、私の本よ!』。事件から二年後の、古義人と繁の「四国の森」での再会。ふたりともさらに老い、そして世界はすこしずつだが変化している。古義人は小説を書くのをやめ、大きな変化が起きる前の「徴候」を感じ取ろうと、日夜新聞を隅々まで読み、気に留まった記事をワープロに入力しつづける……もう少しで読了。今晩読みきってしまおうかな…っと、読了。
 徴候。それは、こんな内容のものだ。
《戦後この国に膨大な数の失業者が出た。その時代に、南米へ移民が送られた。ぼくらが二十代初めの頃だ。これはドミニカに渡った移民が割り当てられた原野の、今現在の写真だね。これだけ意志の塊だらけの……子供のぼくらに投げることのできた大きさじゃないよ……大変な原野。
 ここは耕せない、と訴えると、外務省の役人が、石は三年すれば肥料になる、といったという……そういう言葉が、まずぼくの集めている「徴候」なんだ。(中略)人間が恢復することを考えなくなる、その分岐点を越えた向こうで発せられている言葉なんだ。》
 その「徴候」を集め、書き記してどうしたいのか。「小さな暴力装置」の企みに失敗した老小説家は、新しい世代の者たちにその思いを、「徴候」を通じて託そうとする。それが「小さな暴力装置」としてなのか、「暴力なき抵抗」としてなのかは別にして……。
《「徴候」の棚は、十三、四歳の子供なら誰でもそこに置かれた箱を開いて、なかのものを読める高さにしてある。それはかれらこそが、ぼくの期待する読み手だから。そしてぼくの「徴候」の書き方はね、そこに記述するすべての壊滅のしるしをさ、ひっくり返す思いつきをこそ、彼らに呼び起こそうというものなんだ。》
 次世代に「徴候」を伝える、という試み。それに繁は魅かれていく。そして、残された時間を少しでも有効に使おうと決心する。この決心。これはまさに老人にしか持ちえないものなのかもしれない。老いるとは、死に近づくだけのことではない。死に近づくことで凝縮され、濃縮されていく時間のなかで、動き、駆け巡ることなのだ。彼らはふたたび「おかしな二人組」となる。そして、自分たちはすでに死んでいるであろう未来に向けて、しかし「徴候」がひっくり返った平和な未来に向けて、静かに、静かに動き始める。
《老人は探検者になるべきだ/現世の場所は問題ではない/われわれは静かに静かに動き始めなければならない》
 では、まだ老いてはいない者たちははどうすべきか。「おかしな二人組」のように、老年まで待ち、死期を漠とながら悟りながらも、老いた目と耳で「徴候」を感じ、準備をはじめるべきなのか。いや、若者は「静かに静かに動き始め」る必要はない。騒々しく動け。「徴候」など、感じ取ったそばからひっくり返せ……行間から、そんな言葉が伝わってくる。大江の若い頃の作品の積み重なりが、そう語っているのではないか。大江自身「最後の長編小説」と語っているが、まさに「後期の作品(レイター・ワーク)」、いや「ラスト・ワーク」にふさわしい内容。そして、この小説は新たなはじまり「ファースト・ワーク」にもなるのかもしれない。