わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

シングルモルトで

 七時起床。今日も取材だ。昨日より件数が多い。チャッチャと済ませた。二十一時、帰宅。業務終了。シングルモルトで晩酌。

 色川武大狂人日記』読了。一生の大半を精神病患者として過ごした男の手記、というスタイルの作品。精神病院で知り合った、おそらく彼よりは軽度であろうが健常者とは呼べない女・圭子と彼は、愛を感じぬまま同居生活をはじめる。理由は、圭子が看護婦として彼の面倒を見ることに生き甲斐を感じてみたい、と思ったからだ。彼は圭子との生活の中で、誰かとつながりたいと心のそこから望み、自立した人間でありたいと願いつづける。が、うまく行かない。病気がそうさせることもあれば、圭子がそれを阻むこともある。彼は人間とうまく関わることができない。
 彼の発作が原因で居を転々としたふたりは、以前入院していた精神病院のそばにある、人里離れた古い一軒家で外界と隔絶された生活を送る。いや、外界と隔絶されているのは、働かずに家にただ居つづける主人公だけだ。圭子は病院で働いていたが、二度、三度と無断で外泊をするようになり、やがて彼の前から姿を消す。生きる気力を失った主人公は、何も喰わず、家の中も閉めきって自然に餓死することを望む。死が近づくにつれ、一度は快方に向かっていた幻覚の発作がよみがえり、やがてそれは彼をすっかり覆い尽くすほどになる。彼は幻覚の中で、人懐こく面倒見のよい弟と幻像と対話する。
《「お前、また子供にならないか」
「そうなりたいね、できれば」
「小さいころは、お互いに、わかりあえた気で居たなァ。喧嘩しても何をしても、とにかく末はわかりあえると思ってた」
「ああ−−」
「俺にとって、お前って奴は厄介だよ」
「ぼくもそうだよ。兄貴が厄介だった」
「同じ血が、流れているからなァ、厄介だ」
「どうしても、似てるんだよ」
「似るまいと思ったがね」》
 満員電車のようにギュウギュウ詰めになって大勢の家族と暮らしたいという弟と、人と満足に接することができず、ひたすら引っ込み続けた兄。二人は似ている、と彼は幻像の前で言う。人を求めて止まぬこと、人を愛せずにはいられない点が似ているのだ。それができるか、できないか。兄と弟の違いは、その一点である。
 さらに主人公は、こうつづける。
《「いつ頃からか、はっきり言えないがね。人間という奴は、とことん、わかりあえないと思っちゃったよ。服装や言葉や生活様式や顔つきまで似てくれば似るほどに、似ても似つかない小さな部分が目立ってきて、まずいことに、皆、その部分を主張して生きざるをえないものだから、お互いに普通になっちゃう。病気になって、はじめて病人のことがわかったかと思ったが、これが全然わからない。多少わかるのは俺の状態だけだ」》
 死が近づいてきたころ、彼の目の前に圭子が戻ってくる。いや、戻って来たという幻影なのか。作者はこの点を明らかにしていない。圭子は主人公を棄てて外につくった男のもとに行ったことを詫び、さらに主人公とも一緒に暮らしたい、無理なら自分たちの家の側にアパートを借りて暮らして欲しい、面倒は見る、と提案する。無論、彼はそれを拒絶する。
《「−−俺は、犬じゃない」》
 このひと言に、この作品の原動力のすべてが込められているのではないかと思う。生きる権利があるという点において、健常者も狂人も平等である。しかし、社会が、世間が、狂人の自立を許さないようなのだ。「わたしが面倒を見てあげるから」このやさしさこそが、仇になる。狂人にも当然ある自尊心はズタズタにされ、可能性も未来も奪われてしまう。狂い、苦しむことは決して絶望だけにつながるわけではないのだ。(もっとも、発作さえなければ日常的に暮らせる場合に限るのかもしれぬが。ぼくにはそのレベルの判断はつかない)

狂人日記 (講談社文芸文庫)

狂人日記 (講談社文芸文庫)