わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

山本昌代『緑色の濁ったお茶あるいは幸福の散歩道』

 主語が曖昧、かつ読者を煙にまくような文体。例えば、こんなところ。主人公の鱈子さん(という名前もどうかと思うが)の父、明の趣味はウォーキングサークルでの散歩イベントへの参加である。引用。

「行って来るよ」
 と、ウォークに出かける朝、明氏は声をかけない。
「行ってらっしゃい。気をつけて」
 鱈子さんも母親も、見送らない。

「」部分は必要ないのではないか。なのに、書く。出かける際、明氏は家族に見送られたいと思いながら家を出ることを示しているのか。それとも、家族が明氏を見送りたいものの、朝早すぎて見送れないことを反省しているのか。かつてはこんな会話が交わされていたが、今はないということか。特に深読みする必要もないのかもしれない。なのに、気になる。ただひとつ言えるのは、この部分があることによって、不思議な、途切れそうで途切れない、冷たそうで暖かな家族の様子が間接的に伝わってくる、ということ。