わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

泣く夢

 泣く夢を見た。自分が涙を流している。こんなこと、いつ以来だろうかと夢の中の自分ではなく、夢を客観視している自分のほうが考え、記憶をたどっている。インコのきゅーが落鳥したときが最後だったはずだが、思い出せないでいる。それよりも、なぜ泣いているかが問題だ。自分はすでに大人だが、教室らしき場所にいる。正面には大きな黒板があり、その前に古びた教卓が置かれている。誰かが立っていたような気がするが、思い出せない。ぼくは生徒用の、いや児童用の机に座っているらしい。なぜ児童用か。それは教室にいた仲間たちがみな小学時代の同級生だったからだ。クラスで、いやぼくらの住んでいた古河市の小学生でいちばん背が高かったマッペンが隣にいる。クラスでいちばん成績がよかったが、一年中汗と青っぱなを垂らしつづけていたタックンもいる。会話を交わすということもなく、ぼくらはおなじ教室にいる。マッペンやタックンがどんな表情をしていたかはわからない。ただ、ぼくは涙を流していた。新聞屋の息子のターペンが死んだという知らせを聞いたからだ。
 泣いている。泣いているぞ、おれは。そう思ったところで目が覚めた。涙が頬を伝わる感触がまだ残っている。夢の中で泣き疲れたのか、しばらくは身体が動かなかった。
 ターペンに、いや友人の誰かに何かが起きたのだろうか。確認したほうがいいかとも思ったが、マッペンとは中学卒業以来会っていないし、タックンやターペンは小学校卒業以来顔も見ていない。

 七時起床。午前中は小石川で打ち合わせ。予想外の雨。ひと足もふた足も早く梅雨が来てしまったようだ。濡れたくなかったので、100円ショップで傘を買った。
 ツツジは盛りを過ぎたようだ。色彩から輝きが失われはじめた、と思うと、数日後には茶色くなって溶ける。散らずに溶け落ちるというのは桜よりもさらにはかない、栄華盛衰の象徴のようにも思えて切なくなる。シャクナゲも終った。牡丹も終ったようだ。ただ、入れ替わるように薔薇の花の色彩が日に日に鮮やかになり、ジャスミンの香りがあちこちに漂うようになったのが救いだ。花だけでなく、緑にも目を向けてみる。数週間前までは貧弱にぱらぱらと、弱々しい緑色をした新芽が開きはじめていただけの柿の木が、逞しい深さのある緑色の葉を雨に揺らしている。夏が近づいているな、と思った。陽射しが恋しくなる。
 午後からは某IT企業の新聞広告に専念する。