わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

小島信夫『うるわしき日々』読了

 小島は記憶の本質に迫りたかったのだろうか。
 主人公の老作家の家庭は、さまざまな形で「記憶」と接している。いや、(老作家以外は)問題を抱えている。小児麻痺で障害をもち、アル中と記憶障害で実年齢より十歳も若いころで記憶が停止している状態の、厄介者(と明言されてはいないが)の息子。そして、子どものころの記憶は残っていても直近の記憶が飛んでしまう、それどころか料理教室を開いていたほどだというのに今では料理とは何なのかすらわからなくなりつつある健忘症の妻。そして、いわば記憶を書くことを商売にしているという側面もある、小説家である老作家本人。記憶が恐怖の対象として描かれているわけだ。
 一方で、この作品は傑作『抱擁家族』の三十年後の世界として描かれている。あの作品で描かれた家族の崩壊と再生(なのかなあ)の物語は、主人公の老作家にとっては過去の記憶だ。だが、なぜか本作では『抱擁家族』の世界は重たい過去としては扱われてはいない。それどころか、老作家はすべての記憶に、極力客観的に接している。
 あらゆる事象に客観的に接することで主体的な自己を得、それを表現するのが作家であるとすれば、老作家自身は家族の記憶を客観視しなければならぬという悲しい宿命を背負っていることになる。つまり記憶の喪失によって苦しんでいる他の家族同様、老作家自身もじつは苦しんでいるのだ。ただ、それに気づかない。漠然と感じるばかりである。だから老作家は記憶の中の様々な悲劇を客観的に、場合によってはコミカルさすら帯びた文体で綴るのだ。そして、ラストで記憶に翻弄されている自分の滑稽さをはじめて自覚したから、老作家は出ない涙を流しながら泣くのだ。
「若い作家」として、保坂和志と思われる人物が後半から登場する。保坂の作品は、基本的に「今」という時間の流れを感じ取るままに綴っていくスタイルだ。過去や進行中の今(すなわち未来における「記憶」)を悲劇や喜劇として扱おうとしない。そんな作風の作家が登場するというもの、どこか示唆的だ。
 というふうに読んだけど、男女論として本作を読むこともできそうだ。深いですなあ。