わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

堀江敏幸『郊外へ』

「垂直の詩」。本作品で何度か紹介された写真家ドワノーが、フランスの文化事業プロジェクトのために80年代に撮ったパリ郊外の写真集が紹介されている。その作品と比較するために引き出されたリブウ、ザックマン、ラボワという三人の写真家による写真集に寄せられた、フィリップ・ソレルスによる序文が、この小編の中心となる。作者によれば、ソレルスはフランスの団地、コンクリートの町に「垂直の詩」を見出したのだという。そのちょい後の文章、かなり長くなるが引用。

 ソレルスの指摘をまつまでもなく、現実の郊外は、避けがたい画一化のなかでそれなりの個性を作りだしている。「ハイパーリアルな未聞の光」に浮かび上がる郊外の顔とは、「一個のベンチ、一本の木、白い衣装の花嫁、夕暮れのスーパーのあたりをうろつく犬、岩山、砂、ブロックの真ん中に突き出た顔、通りに運ばれていくマットレス」であり、秩序を欠いた案内板の情報であり、スローガンでもメッセージでもない落書き《タグ》である。タグは壁にだけ描かれるものではない。アスファルトのうえにも容赦なくスプレーで吹きつけられる。読まれることが目的からはずれたそれら白い文字の上を、ローラースケートに乗った少女が駆け抜けてゆく写真にソレルスはことのほか魅了されていたようだが、書くことはエジプト脱出にほかならず、声の啓示によって例外の言語を作りださなければならないと述べた彼にとって、ニューヨークからパリへ、そして郊外へと渡って膨張したタグこそは、《アウトロー》的言語の一形態だったはずだ。

 読まれない文字は、文字として扱われない。当然のことなのだが、それが異様に思える空間。世界全体が書くことを拒絶しているかのような錯覚をも覚えさせる空間。ローラースケートで駆け抜けることができる虚無。郊外の個性は、みな虚無の上に成り立っているのではないか。そんなことを考えてしまった。