わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

古井由吉『白暗淵』

 古井の最新作。「黙躁」というタイトルで「群像」に連載されていたときにしっかり読んでいるのだが、あらためて通読することに。単行本化されるにあたり『白暗淵』となった。どちらも、矛盾しているが感覚的に理解できる、不思議な語感がある。もちろん作者の造語だ。
「朝の男」。このようにはじまる。

 物を言わずにいるうちに、自身ではなくて、背後の棚の上の、壺が沈黙しているように感じられることがある。沈黙まで壺に吸い取れたその底から、地へひろがって、かすかに躁ぎ出すものがある。
 何事も無言の内はしづかなり、と言う。置かれた境遇によっては、どうとも取れる。閑寂とは限らない。瞋恚の極みの無言でもあり得る。さしあたり何の行動も起こらぬ不思議さが、他人事の訝りが、静かだと感じられる。あるいは、ひとしお身に染みて長閑になるその時、無言は揺らいで、破れかかる。刻々の先送りとなる。溜め息も吐いてはならない。どんな呻きを誘い出すか知れない。
 それでも無言の内はとにかく、静かには違いない。

 抽象的、かつ限界まで主語と装飾語を排除した表現は、なんだかよくわからないのだがよくわかる、何がわからないのかもわからないのでただ黙っているのだが、黙っているうちに理解できたような気になり、気づけば心の底から同意してウンウンそうだ、とうなずいている、そんな感覚でじんわりと迫ってくる。なるほど、これこそ確かに「黙躁」、黙して躁ぐ、だ。
 連載当時の時事ネタである耐震偽装を「黙躁」の視点から語り、そのまま話題は戦時中の空襲体験へ。もいっちょ引用。ちょっと長いけど。

 空は黄身を含んだ暗色に閉ざされて、明けたともつかず、地表から白み出す。それにつれて道の両側の煙の中から残骸がつぎつぎに集まってくるように現われる。黒く焦げた柱が大小さまざまな得体の知れぬ杭のように立ちあがる。頭を焼かれた樹が手先の欠けた腕を天へ伸べて、焼け跡をさまよう人影に見える。まれに難を逃れた家屋の、無事のたたずまいがなまじ、まがまがしい。さらに明けてくる中を歩くうちに、つい未明に焼け落ちたばかりの瓦礫の原が、もう十年も二十年も昔からそのままにひろがっていたかのように、昨日までのことが遠くへ断たれる。家へ向かうこの歩みだけが昨日を繋ぐ。急いではならない。急ぐほどに道は遠くなる。急いで踰えられるような距離ではない。時間も空間も永遠の相を剥いている。歩調を乱してもならない。立ち止まるのはまして危ない。足を止めて辺りを見まわしたら最後、魂が振れて、昨日と今日とのあいだにぽっかりとあいた宙に迷い出し、妻子の安否も忘れることになりかねない。

 空襲の被害は確かに現実だというのに、現実が遠くなるような感覚。いや、現実のために今までの現実、すなわち過去が遠くなるのか。
 古井は、この文章のあとに、このようにつづけている。

 血の赤さの太陽がいきなり行く手の中空に掛かった時には、ただ今の今を踏む足取りになっている。焦げた柱も樹木も、崩れた壁も赤い光を受けて、やわらかな影を流している。変わり果てた姿ながら、静かにあけた早朝の雰囲気に変わりない。長閑だ、狂ったように長閑だ、とつぶやいては、その声の長閑さをまた狂ったように感じる。先のことは見えず、過ぎたことは過ぎたところから消える。それでも何歩めかごとに、運命がそこで定まる境目へ踏み込むような、この一歩に妻子の安否が掛かっているような、空恐ろしさがひざ頭から走り股間に迫る。

白暗淵 しろわだ

白暗淵 しろわだ