わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

正月の領域

 食らうことは生命活動の基本であるが、基本に忠実では応用力が効かなくなる。すなわち、他の楽しみが失せる。正月が来るたびに、そう思う。思うに子どものころの正月は生命活動の基本をできあいの半保存食という分野で究極のレベルまで追究するおせち料理を食べることのほかに、独楽回しだの凧揚げだのカルタだのトランプだの花札だのといった理性を持つ高等動物のみが行う文明的な活動である「遊び」、さらにはお年玉を頂戴するというこれまた高等動物のみが展開可能な経済活動、となすべきことの幅が広かったような気がする。それがいつしか、正月と言えば(テレビを観たり近況を語りあったりしながらではあるが)、多すぎるだろが、とツッコミを入れたくなるほど(実際に入れているのだが)の量のおせちその他の料理を、ただひたすらに、食って、食って、食って、食って、体に脂肪とコレステロールを溜め込む期間になりはてている。親というものはなぜ、帰った子どもにあきらかに分量過多な料理を食わせるのだろう。親心、といえばそれまで。ありがたいかぎりではあるが、それにしても、多すぎる。百年に一度の経済危機に瀕しているらしい(みんな、そんな自覚持っちゃだめですよ。持ったとしても、明るい未来を想像しましょ)現代において、飽食の時代という言葉はすでに過去のものとなった。相応な量の料理を自然の摂理と豊穣の神に感謝しつつ、いただく。これでいいのではないか。そして楽しみを、子どものころのように(お年玉を復活させろとは言わぬが)拡げるべきだ。ぼくはテレビゲームの類はいっさいやらぬが、任天堂Wiiの、年末年始を家族みんなでWiiで遊んで過ごすというあのCMは、すばらしいと思う。
 などとつねづね思っていたのだが、今年の帰省は相変わらず食らうことが中心ではあったものの、妹が連れてきた甥姪が妙な行動を取ってくれたので、思いがけず正月の領域が拡がることになった。
 七時三十分に起床し、掃除だの洗濯だのをすっかり済ませ、十時半ごろに家を出て、手土産にチーズとワインの福袋をぶら下げて宇都宮線で実家のある古河へ。先に来ていた妹と甥姪に歓迎され、持参したワインで乾杯。しばらくは甥姪とガッコの話やSMAPのコンサートのバックダンサーをしたという話をしたりしていたのだが(その間、甥姪は何度もニンテンドーDSをいじくっていた)、突然姪が、じーちゃんのこぎり貸して、木を切りたいと言い出した。よろこんだ父は庭先で、不要な木っ端を与えてのこぎりの使い方をレクチャーしはじめた。しばらくは傍観していた甥も切りたくなったらしくてふたりに合流。やがて作業はかんなをかけたり金槌と釘で木をつないだりと増えはじめ、最終的にふたりは、なんだかよくわからんものをつくりあげてしまった。まったく正月らしくはないが、クリエイターのはしくれである叔父としては、ふたりの創造性あふれる行動に感動。とカミサンとふたり、将来がたのしみじゃ、と語り合った。その後もふたりの創造欲求はとどまることがなく、ぼくがミカンにマジックで顔を描いて見せたら、おれもやる、あたしもやる、と落書き合戦がはじまってしまった。甥に至っては、テーブルに置いてあったソムリエナイフを使ってミカンの皮を上手に切り取り、ハロウィンのかぼちゃみたいな要領で猫をつくってしまった。食べ物を無駄にしちゃいけません、などと無粋なことをいう大人は一人もいなかった。
 二十時、帰宅。花子はちょっと怒っていた。麦次郎はそうでもない。
 そうそう。妹が保護した迷い鳥のセキセイインコを、両親が飼うことになった。妹のところは犬猫がいるのでダメなのだそうだ。ウチみたいに、猫がちっちゃいときから同居させないと難しいんだよなあ。