わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

多和田葉子「雲をつかむ話」(6)

「群像」六月号掲載。おそらくは作者自身がモデルであろう、ある詩人の、異国での暮らしとそこで関わった犯罪者の記憶が、多和田らしい奇妙なずれた文体で淡々と語られる。ねじれているのかストレートなのか、緻密なのかおおざっぱなのかわからない視線。だからこそ、あるときは目の前にあるコトや人の裏側まで透かし見ることができ、またあるときは何も見えなくなる。見えなくなると、自分の過去の記憶や表面的な感情へと、視線がブーメランのように戻ってくる。あるいは、奇妙な連想や妄想から生まれた奇妙な比喩、いや、その連想や妄想自体に、その視線が深々と染み込んで行ってしまう。かと思えばすぐに浮き上がる。その、ぶらんぶらんな感覚がたまらなくおもしろい。
 書き出しを引用。

 目の前に男の顔がある。肌の色はくすんでいるが、瞳の中では滝に打たれる石のように飛沫が激しく動いている。わたしと目が合うと、幼友達でも見つけたようにその表情がパッと開いた。初対面である。誰かに似た顔。思い出せない。乾いて紅色に燃える唇が開いて、息といっしょに、ぽっぽっと音節をぶつけてくる。口のまわり、目尻、額の皺たちの活動も活発で、小刻みに小さな波が岸に打ち寄せてはまた引いていく。中国語は分からないし、相手もそのことは分かっているはずなのに、そんなこととは関係なく相手はしゃべり続ける。あなたには分かるはずだ、と言われ続けているような気分になる。

群像 2011年 06月号 [雑誌]

群像 2011年 06月号 [雑誌]

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