わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

保坂和志『カフカ式練習帳』

 問題作(?)の『未明の闘争』は、ご近所の野良猫たちの過酷な生活と闘病、そして次々とつらなっていく死がラストを飾った。その猫たちに関する描写は本作にも登場する。別の角度での、あるいはもっと細かい描写がつづく。ああ、この子は死んじゃうんだよなあ、と思いながら読むというのは、猫好きとしては非常にツライ。

「だって死んだら終わりだよ。自分が死んだあとに世界があるなんて、どうして考えられるの?」という、つまんねえヤツの言い草みたいなセリフから始まる断章がすさまじい。「ジミヘンのギターは名もないブルース奏者が鳴らした音、その試行錯誤のすべてを響かせる」という言葉(誰が言ったのか知らないし、この言葉に共感できるほど僕はヘンドリクスを聞き込んでないけどさ)を引っ張り出して、語り手は全力でこのつまんねえヤツの言い草をたたきのめそうとする。少し長くなるが、引用。

 

芸術に接するときに根拠を求めてはならない。根拠はそのつど自分でつくりだすこと。社会で流通している妥当性を求めないこと。芸術から見放された人間がこの社会を作ったのだから、社会は芸術に対するルサンチマンに満ちている。彼らは自分が理解できないものを執拗に攻撃する。自分の直感だけを信じること。もし、

「私が眠っていたあいだ私は起きていた」あるいは、

「私がここにいなかった日々、私はここにいた」

 という文が人の胸に生まれたら、その人はその文を受容し、そこから自分の考えをはじめなければならない。ジミヘンが彼に先行するブルースマンの試行錯誤を鳴らしたとはそういう意味だ。

 

「なぜ、この作家はこんな作品を書いたのだろう」「これは何を意味しているのだろう」ついついそんな読み方、観賞のしかたをしてしまうのだが、その真意をあまりに探りすぎるような、あるいは「メッセージ」を過剰な姿勢で受け取ろうとする読み方を、保坂和志いつもは全面的に否定する。表現の制作過程や理由は芸術作品の本質になんら影響をもたらさない、そして作品に込められたメッセージもまた作品の本質とは何ら関係がない、ということなんだと思う。ゲルニカが心を打つのは反戦のメッセージが込められているからだが、その作意を知らぬまま観賞しても、人は必ず心を打たれるはずなのだ。心を打たれるからこそ、「なぜ」「どうして」が生まれるのだろうけれどね。引用した部分にも、そんな思想が強く表れていると思う。

カフカ式練習帳

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朝露通信

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