八時。眠い。アタマも痛い。だが夕べはシャワーを浴びただけで寝てしまったので、風呂に入りたい。三十分うだうだしつづけたが、起き上がれば眠気も二日酔もどうということはない。ひとっ風呂浴びてから、掃除など。すっきりしたのだが、麦次郎がリビングに派手にゲロを吐いたので、気分はかなりぶち壊された。
午後から仕事。某ペットフードメーカーのキャンペーン、某ハウスメーカーのWebサイト企画など。書斎で作業。コピーを考えはじめると、麦次郎がリビングでナオンナオンと大声でわめき、ドアノブをガチャガチャと肉球で不器用に鳴らす。うるさくてしかたない。中断し、リビングで麦次郎と遊んでやる。膝の上に乗せて、モミクチャにする。それが楽しくてしかたないようだ。興奮しすぎてわけがわからなくなってきたところで書斎に戻る。いや、その直前に花子に呼ばれた。こちらはフニャンフニャンと小声だけれど主張は強そうな鳴き方で、馬鹿な麦なんか相手にしていないで早くこっちに来いという。戻る。作業する。と、三十分もたたぬうちに麦がまた騒ぐ。それを三度か四度繰り返した。仕事は遅々として進まず。だがこれは猫飼いの宿命。猫とはニンゲンを翻弄するために生きているのだ。そして、翻弄という行為が逆説的にニンゲンを癒していることも、猫たちはちゃんと心得ている。
泰淳「異形の者」読了。修業の卒業式みたいな日に、式典のあとに大穴から呼び出される主人公。暴力と破戒を予期した主人公は、大仏の前で仏道への誓いの儀式の中で、その仏(の偶像)に呼びかける。いわゆる「さあ行くぞ!」のパターンの終わり方なのだが、それを仏教という素材の中で展開するというのがおもしろい。もっとも、「さあ行くぞ!」というパターンは、暴力との相性がすこぶるいいようなのだ。しかし主人公の仏像への呼びかけは、暴力、戒律といった概念を越え、人間の業と世界や宇宙の関係、神と人間の関係の領域にまで広がっていくように読める。そして、その業はやはり主人公自身、個人の生へと帰着するのだ。世界は自分のためにある。人間を超越した存在がもしいて、その運命を定めているのだとしても、それすら、やはり今この瞬間を生きる自分のためにある存在なのだ。それはすがるべき対象でも、祈るべき対象でもない。ただ、語りかけるだけの存在である。だから、目の前にある大仏は、主人公にとっては単なる「物」でしかない。彼はその「物」に語りかけることで、超越者と自己の関係を明確にしようとする。
《「(中略)あなたは人間でもない。神でもない。気味の悪いその物なのだ。そしてのそ物であること、その物でありうる秘密を俺たちに語りはしないのだ。俺は自分が死ぬか、相手を殺すかするかもしれない。もう少したてば破戒僧になり、殺人犯になるかもしれないのだ。それでもあなたは黙って見ているのだ。その物は昔からずっと、これから先も、そのようにして俺たち全部を見ているのだ。仕方がない。その物よ。そうやっていよ。俺はこれから髪棄山に行くことにきめた」
どこか見えない下方の闇の中で、ボクッボクッと大木魚の鈍い音がつづいていた。風音もほとんどそこまではきこえなかった。
「俺は日に何回あなたの名を称えるか、あなたに誓うことはできない。しかしもし俺が生きて行けたなら、無意識のうちにでも、その物であるあなたをかならず想い出すにちがいない」
私はしごく落ちつきなく、漠然とそのようにつぶやいて、仏像の前の墨色の段を降りた。堂内を一周して入り口へ出ると、冷たく湿った風が私の襟元に吹きつけた。》