わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

古井由吉『詩への小路』読了

「22 ドゥイノ・エレギー訳文7」から「25 同10」まで一気に読んだ。リルケ近代文学の金字塔的詩作は難解過ぎて軽薄なぼくの理解の限界を大きく超えていたが、理解できることと感動できることは別のものであることが、漠とながら感じられた。古代都市の描写を通じて変遷する都市へのノスタルジックな愛(悲哀、あるいは怒り)がつづられる「9」から引用。いつのまにか、主題は生きることの本質へと移ってゆく。

 現世よ、お前の求めるところはほかならぬ、目には見えぬものとなって、われわれの内に甦ることではないのか。いつかは目に見えぬものとなること、それがお前の夢ではないか。現世、しかも目に見えぬ。この変化を求めるのではないとしたら、お前の切々とした頼みは何であるのか。現世よ。親愛なる者よ、私は引き受けた。安心してくれ、わたしをこの努めにつなぎとめるには、お前の春をこれ以上重ねる必要はおそらくないだろう。一度の、ああ、たった一度の春だけで開花には十分に過ぎる。名もなき者となって私はお前に就くことに決心した、遠くからであっても。お前は常に正しかった。そしてお前の聖なる着想は、内密の死であるのだ。
 
 このとおり、わたしは生きている。何処から来る命か。幼年期も未来も細くはならない。数知れぬ人生が心の内に湧き出る。

 そして「10」。ラストは「死者の世界の旅と出会い」という暗喩の世界。なにやら転生について語っているらしい。そしてラストは、こんな一言で締めくくられている。

 そしてわれわれは、上昇する幸福を思うわれわれは、おそらく心を揺り動かされ、そのあまり戸惑うばかりになるだろう----幸福なものは下降する、と悟った時には。

 この「下降」をどう解釈すべきか。

詩への小路

詩への小路