東京国立近代美術館で三月五日まで開催。「黒」を通じて色彩の豊かさを描いた画家、というのが定評である。が、実際に作品を観て驚いた。この画家、それだけではない。すべての作品が、というわけではないのだが、ズレや流れを描こうとしているのではないか、と思えてきたのだ。
よく観ると、対象物がズレている。ブレているといった方が正確か。鳥を描いた作品が多いのだが、身体の位置と足の位置が全然違う。輪郭が一発で決まっていない。その描き方は、じっとしていない鳥の細かな動きそのものを一枚の絵に封じ込めようとしているように思える。「白猫」という作品では、対象物の白猫よりも、なにやら後ろへ後ろへと流れていきそうな背景にばかり気が向いてしまう。映像の場合、移動しつづける対象をカメラで同じ速度で追い続け、その結果背景がどんどん流れていくという見え方があるが、あれを絵画の中で(ひょっとすると無意識に)やろうとしているのではないか、などと考えてしまう。
「夏の朝」「夏の昼」「夏の夕」という同じ農村風景を描いた連作も、ズレている。朝が、朝に見えない。昼が、昼に見えない。夕が、夕に見えない。「朝」は早朝の太陽の光を浴びて輝くというよりも、地面から大地の「気」のようなものがむくむくと沸き起こる、その様子を描いているようである。「昼」は、その気が拡散し(おそらくは村民やその他のあらゆる生き物、存在に宿り)、大地そのものは空虚となった感がある。そして「夕」で、その気がふたたび帰ってくる。ぼくにはそんなふうに見えた。
一連の流れや動き、すなわち「時間」を描こうとした感が強いのは、ひょっとするとこの画家が能に強い関心を示していたからかもしれない、と思った。