わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

山本昌代『緑色の濁ったお茶あるいは幸福の散歩道』読了

 不思議な家族小説である。三人称多点描写なのだが、視点が1センテンス内でころころ変わる。誰が語っているのかわからなくなるが、それでもすんなり読めてしまうのは、そこに書かれたことが、家族それぞれの心理をなんらかの形で表現しているからなのかもしれない。
 作品は直腸癌の手術を終えた父が退院し、つづいて母の体調が悪くなり、しかしそれもまた恢復し、だがその一方で鱈子さんは障害のために病院に通いつづけている、というところで終る。健康という問題から危機を迎えた家族だが、以前とはどこかが異なっているものの、もとの平穏な状態に戻れたことを誰もが心の中で喜ぶ。最後、鱈子さんは新たな危機の予兆めいた夢を見るが、その事実を淡々と受け取り、姉の可李子に話さなきゃ、とだけ思っている。家族構成は典型的な子どもふたりの核家族だが、誰もが人間的には成長し、すでに大人になっている。だが、家族という集合体が成熟していたわけではない。むしろ、家長制が崩壊し父の威厳が失われた(だから鱈子さんは、ときおり父を「明」と名前で呼び捨てる)家族はバラバラの個人の集合のようにも思える。それが、父の入院という危機を迎えることで統合されようとしているのだ。家族の様子と連動してか、ラストが近づくにつれ、多点描写や主語の混乱は前半ほど激しくなくなる。
 戦前、日本の家族は父が上に立つことで成立していた。つまり、父が家族の中心だった。それがアメリカ的なファミリー像を民主化というタテマエのもとに強要されてしまった日本の家族は、中心というものを失ってしまったのではないか。再度家族を家族として成立させるには、他の家族と同等になっていた父の存在を異質化する必要があるのかもしれない。鱈子さんの家族は、父が癌=異質化することでふたたび統合することができた。癌という事実自体は悲しく、そして大変なものであった。だが、家族はそれそれが、それぞれの立場でそれを正面から受け止めるのだ。ぼくは戦前の家長制を支持しているわけではない。だが家族という単位が現代において崩壊しているという事実には興味がある。ぼくの家では、戦前の家長制や家系血統を重んじ守ろうとする(それでいて結構やくざなところのある)父と、血のつながりだけで束縛されることを嫌ったぼくが激しくぶつかりあった時期がある。ぼくが実家を出て東京で暮すようになってからぶつかり合いはなくなったが、ふたりのあいだには親子を他人のように思わせる壁が確かにあった。ところが、父が胃癌で手術したあとは、その壁が自然と消えたように感じた。この作品と状況はずいぶん違うが、父の危機によって家族の関係が変化したという事実を、身をもって体験しているのだ。だからぼくには、この作品の奇妙なリアリズム、不自然な描写も納得が行く。個人の集合体でしかない家族を描くには、こんな書き方こそがふさわしい。