わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

鷲田清一『〈ひと〉の現象学』

 第三章「親しみ 家族という磁場」。核家族化=最小単位化により社会からの影響=浸蝕をこれまで以上に受けやすくなってしまった「家族」、そして家族に負担がかかりやすいシステムとして完成されつつある社会。家族が社会を補完する、という奇妙な社会構造。…こう書くと難解かもしれないが、介護のことを考えればすぐに納得できる。要介護者は、本来家族だけで世話をしきれるような存在ではないのだ。だが、社会は家族に負担を強要する。

 自然(≒生殖・出産・成長)と制度の接点の問題に関する考察もおもしろかった。家族は社会権力のひな形でもある、という分析。家長制度がその最たる例。そして家族とは、家族のメンバーそれぞれには互酬性がないため、「家族なんだから」という理屈と呼べないような一言で、時間や金銭、そして労働力が一方的に搾取される場所でもある。うーん、悲しい見方だが。ちょっと引用。

 

 家族は、人間関係の対立する二つの景気が若い不能なかたちで交差し、共存している、矛盾に満ちた場所

 

 著者は、こうした特性を抱え込んだ家族という制度あるいは慣習(もしくは暗黙の契約?)が、大きな問題を抱えていると指摘している。ひとが集合する場所であるなら必ず自然発生的に直面するはずである、対立する価値観や考え方による葛藤が、家族という場所あるいは制度あるいは…には不在であることが、問題だというのだ。

 

 読み進めるほどに、切なくなる論考。うーむ、うーむ…。家族って、なんで社会の最小単位になっているのだろう。どうして家族を形成しなければいけないのだろう。考えたこともなかった。

 

<ひと>の現象学

<ひと>の現象学

 

 

 

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