わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

富岡多恵子『動物の葬禮|はつむかし』

「動物の葬禮」読了。動物とは、指圧師をしている主人公ヨネの娘サヨ子の男、通称「キリン」のことである。ある日、キリンは胃癌で死に、サヨ子はその亡骸をヨネがひとり暮らししている実家へ運び込み、葬式を済ませる。
「窓の向こうで動物が走る」が家族における「父」の終焉の物語だとすれば、本作は「父」が不在の家族の物語と言えるかもしれない。ヨネの夫、サヨ子の父は本作には登場しない。夫がいないからか、ヨネは指圧師をしながら長屋に住んで、ときおりお客から古着やら古い家具やらをもらいながらその日暮らしをつづけ、サヨ子はキャバレーに勤めながらときおりヨネのもとに顔を出しては、金を無心したりヨネがもらった古着古家具を横取りしたりしながら生計を立てる。サヨ子には「キリン」という、背は高いが痩せ細った、親も兄弟も親戚も友人もいない孤独を絵に描いたような男がいる。家族のいない男と、家族が分断された状態にある女の関係。昭和三十年代、四十年代のドラマや映画、小説の類にはよくありそうな設定だ。だが本作がユニークなのは、その「家族のいない男」が死に、「家族が分断された状態にある女」の手で葬式があげられる、そしてその葬式に、「家族のいない男」とはなんの関係もないはずの「家族が分断された状態にある女」の母、つまり、もうひとりの「家族が分断された状態にある女」が巻き込まれるという展開だ。さらに、「家族が分断された状態にある女」は、「家族のいない男」をしいたげた(と勝手に思い込んでいる)相手をゆするのだ。男の孤独を埋め合わすかのように。ぼくには、戦後、家族の中で消えた存在になりつつあった父というものについて、父を描かぬことで描いた作品のように読めてしまう。おそらくヨネやサヨ子にとって、父の不在は当然の状態なのだろう。だからサヨ子は心に空白を抱えた男に惹かれ、ヨネはその空白の男の遺体が自分の家に運ばれたとき、知らぬ男の遺体があるということ以上の気味の悪さ、不自然さ、不条理さを感じるのだ。