わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

山本昌代『デンデラ野』

「豚神祀り」読了。娘の死後、息子の登は残されたブタを飼育しつづけていたようだが、突然それを殺し、頭部を切断して冷蔵庫の中にブチ込んで父親の淑三を驚かせる。高校卒業後は徳島のガラス職人に弟子入りすることが決まっている銅工屋の息子・浩一(空手部所属)に「ブタが祟っているのではないか」と言われた淑三は、ブタの遺骨を祠に入れて鳥居を建て、お稲荷様の横の空き地に祭ろうとする。だがそれは登の手によって破壊され、淑三はその流れで登に金属バットで襲われそうになる。その後、登は相変わらず登校拒否をつづけているが、淑三は家業の豆腐店を盛り上げようと、カルシウムの多い豆腐をつくったりしてみようかと考えるところで物語は終る。
 母の失踪により家族関係が崩壊した淑三一家。つくづく、現代社会において家族の中心となっているのは「母」であり、それは個人主義によって分離寸前の状態をなんとか保ちつづけているだけのものなのだ、と痛感する。母の不在は、家族の中心の不在を意味する。父親は家族の経済を支えるだけの存在でしかないからだ。そして娘は同級生(ボーイフレンドか)からもらったブタを育てようとするが、これは女性である彼女の疑似的な家族づくりの行為と解釈していいだろう。本作では、ここに競争社会というエッセンスが加わっているように思える。登は元野球部で、浩一は空手部だ。自由主義社会とは個人の自由を尊重する一方で、個人同士が争うことで、勝者が敗者の自由を奪う。一方、自由主義経済の枠組みのなかで自営業を営む登の父・淑三と浩一の父は、競争社会に組み込まれているのに競争らしい競争をせず、地域経済のひとつの歯車として機能している。そして彼らはふたりとも子どものころの夢を捨てて家業を継いだ経験がある。家業を継ぐという行為が家族への従順と個人的自由の放棄を意味するとすれば、ふたりの父は、息子たちから見れば敗者であるのだ。自分たちは敗者にはなりたくない。だから登は登校拒否や家族とのコミュニケーションの断絶によって自分が家族であることを否定しようとし、ブタを育てておきながら殺すという父殺しの代替とも取れる行為で父を威圧し反抗する。浩一はガラス職人という道を選ぶことで家業を継ぐという敗北行為から逃れようとする。そう考えると、ブタの祟りを怖れて祠をつくってそのタマシイを祀ろうとした淑三の行為は、母になることを模倣しようとした娘の意志を祀ることであり、同時に家族を否定しようとした登の意志を祀ることにもなる。表面的には祟りを怖れてということではあるが、淑三自身に心の拠り所を欲する気持ちがあったがゆえの行為ではなかったのだろうか。それはすなわち、今の自分の家族に、中心となるべきものがないことに父である淑三が漠然とながら気づいていたことにほかならない。